◆ 2008.02.12 Tue

恋は乞い合い思い合い

恋愛は「〜をしてもいい」っていう同意をお互いに取りあって、増やしていくことだ

何で読んだのか忘れてしまったのだけれど、そんなことが書いてあって「ああ、そうかもしれない!」と納得した。「恋」は「乞い」であるというわけだ。なるほど、確かにお互いにその心理的ハードルを少しずつ高くしていくことは、正に恋愛プロセスの中心であって「楽しみ」といっていいと思う。

心理的ハードルの高い「乞い」を成就させていくことで、お互いの関係はどんどん近づいていく。しかし、その方向を間違うと「思いやり」が欠如して関係が拗れてしまう要因にもなってくると思う。一般的なカップルが3ヶ月ほどで別れやすい理由も、色々な「乞い」が一通り成就するのにかかる平均的な期間が3ヶ月なのだと考えると納得がいく。言い換えれば、3ヶ月でお互いの「我が儘」が開けっ広げになるわけだ。

「乞い」のプロセスを具体的に考えてみると、例えば「手を繋ぐ→キスをする→セックスをする」という性的なものばかり思い浮かぶ人も多いと思うが。そんなものは基本ハードルのようなもので、健康な体と精神を持っていれば「本能」だけでいとも簡単に越えることができる。難しいのはもっと理性的な部分の「思いやり」のハードルなんだと思う。

心を許しきって我が儘を言ってくる相手をどこまで「許せるか」、色々な付き合いの中で相手をどこまで「優先できるか」、色々な選択の中で相手を「選べるか」。世の中のカップルというのは、殆どがそういう類いの心理的ハードルの高さを乗り越えられずに挫折し、別れているんだと思う。しかし、個々人それぞれに乗り越えられない一定の「高さ」が仮にあるとしたら、人間は誰と付き合っても同じところで挫折してしまうことになる。

しかし言うまでもなく、実際はそんなことはない。つまり重要なのはハードルの「高さ」ではなく「相手」なのだ、それは例えば生理的な「相性」とも言えるけど、それ以上に重要なのはお互いに「乞い」と「許し」のギブアンドテイクを成り立たせる努力をすることなのかもしれないと思った。

「思いやり」を「思い合い」にするってことだよな。
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◆ 2007.12.10 Mon

沈黙を恐れろ!言葉を紡げ!

しばらく二人で黙っているといい、その沈黙に耐えうる関係かどうか

恋愛においても友情においても「沈黙」とは「恐怖」であり、人は沈黙を恐れて無理に言葉を紡ごうとすることがしばしばあると思う。思春期の少女のようにお喋りな自分は、この冒頭に紹介したキェルケゴールの言葉にドキッとしてしまった。そうかそうか…。

うーん…本当にそうだろうか?

キェルケゴールのいう関係を確かめるために意図的に作り出す「沈黙」において問われているのは「沈黙の性質」である、「言葉の要らない沈黙」なのか「言葉を失った沈黙」なのか。それを確かめるために意図的に沈黙を作り出すのは有意義な試みかもしれない。

しかし、キェルケゴールの言葉の表面だけに扇動されて「みんなも黙ってみようぜ!」などとは言うまい。平穏に満ちた「沈黙」とは、お互いのことを十分に理解しあえた関係の中に自然に生まれていくもので。そういった「言葉の要らない沈黙」が成り立つ関係になるには、それなりの対話の時間が必要だと思うのだ。

そのプロセスを踏み越えていきなり沈黙という試練を作り出したって、良い事など一つもない。「言葉を失った沈黙」はコミュニケーションのすれ違いが生む「隙間」でしかないわけで、やはり避けるべきものだと思う。意図的に作るなんてもってのほか。

逆に言えば、会ってからそれほど時間が経っていない人間と心地よい「沈黙」が作れたとしても、それは状況がたまたま生み出した「不完全な魔法」であって。実際に行動を共にしたり、対話をすることで、現実が見えてきた時にその沈黙の性質がひっくり返ることもあるのだ。

恋愛の沈黙に悩む、「ある親友」の幸福を祈って言葉を紡ごう。

 恋愛にも友情にも魔法など存在しない、
 だから我々には対話が必要なのだ。

 沈黙する暇があったらお互いを語れ。
 大人ぶって寡黙なふりをするな。

 愛する人の前では心を開いて子供になれ。
 見栄を張るな、嘘を付くな、素直になれ。

 書を捨てよ、町へ出よう。
 素敵な人に会いに行こう。

 ひゃっほう!!

なぜだか知らんが寺山修司風。最後は日本人らしく冷静になって、萩原朔太郎の素敵な言葉を思い出そう。

最も親しき友人というものは、常に兄弟のように退屈である

つまりはそういうことだ!…全然冷静になってないなw
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◆ 2007.12.05 Wed

恐怖と不安に支配された恋愛

恋愛は恐怖感や不安感に支配されやすいなぁなんて時々考える。

特に、男女のどちらかが不安定な精神状態になった時が危ない。例えば付き合っている女の子から突然「私って淋しくなると、かまってくれる人なら誰でも良くなるのかなぁ…」なんて言われたとしよう。

さぁ大変だ!ここで男性諸君はどんな風に言葉を返すだろう?

じゃ、俺よりかまってくれる人がいればそっちに行っちゃうわけ?

質問にカッとなってついそんな刺々しい言葉を返してしまう人は、そういう恋愛に自分から引き込んでしまうタイプかもしれない。

しかしこの返し方じゃマズいよ、雰囲気が悪くなって泥沼になってしまうのは明らかだろう。でも、こんな返しをしてしまう人って実際かなり多いんじゃないかと思う。じゃあどんな返し方をしたら良いのか考えたい。

ネガティブになってしまっている人間に何を問いかけたってネガティブな答えしか返ってこないに決まっているのだ、まして「そんなことない、あなたじゃないと嫌」なんてポジティブな答えを無理やり捻り出させようとするなんてナンセンス。

こういうときは基本的に相手にターンを与えない方が良いと思う。友人に模範回答と題し、シュミレーションしてみたら「勉強になった!」「いいね!」と男女問わず無駄に賞賛されたので、ここにも書いてみる。

淋しくなったらちゃんと言ってね、〜が淋しいと感じる時はこっちも淋しいんだから。そこで我慢するのはお互いが辛くなるだけだよ。

"誰でも"っていえるのは、相性がそこそこ良い人と今までたまたま付き合えたからそういえるだけだよ、実際そんなことは無い。そんなネガティブなことばかり考えて"今"を疎かにしてたら、どんな相手とだって上手く行かないよ。もっと前向きに恋愛しよう。

少なくとも俺はたとえ淋しくなったって〜じゃなきゃ嫌だよ。

基本的にはディスカッションと同じ要領だと思う、ネガティブな要素の全てに対してカウンターパートを示すなりポジティブな切り口を示すなりした方が相手も病んだ状態から抜け出せるきっかけになる。

こういうネガティブなことを言ってくるときの人間が本当に求めているのは、そこから救ってくれる「前向きな相手の姿」だと思う。恐怖感や不安感で必死にしがみ付く恋愛にならないために、それらをポジティブに捉えられる客観性と柔らかさを持って相手と向き合うことって大切だ。

ポジティブといっても、セックスの気持ちよさで事勿れにするような強引な解決法でなんとか持ってるようになったら末期だと思う。ショスタコーヴィチの第五交響曲で議論になった言葉になぞらえるなら、「強制された歓喜」はやはり悲鳴でしかないのだ。ひぃひぃ…。
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◆ 2007.10.27 Sat

タンポポの憂鬱

友人と昔の教科書に出てきた話の話題で盛り上がった。

その中でたんぽぽはるかちゃんの詩の話になった。昔、国語の教科書に出てきた工藤直子さんの詩集「のはらうた」からの作品。シンプルだが非常にインパクトのある内容だったので。記憶の片隅に残っている人も多いだろう。

会いたくて

会いたくて

会いたくて

今日も綿毛を飛ばします

今改めてこの詩を読んで、悶々とした歌だったんだなぁとしみじみ。本当に会いたいなら、その根を引きずってでも会いに行けばいいと思うし。綿毛のような曖昧な自己表現ばかりを繰り返していたら、いつまでたっても会えやしない。自分の曖昧さと未熟さに酔い痴れ、結局は甘えているんだ。

最近周りの目とか世間体とかどうでも良くなってきた、他人にとってどうかなんて大して重要じゃない。間違った美徳を振りかざして一番大切なモノを置き去りにしてた過去の大きな矛盾を考えたら、自分の気持ちに「素直に」なれている分、今の自分はずっと健全なのかなと思う。よくわからん。

「僕は綿毛なんか飛ばさない、だからこの足で君に会いにきた」
◆ 2007.10.10 Wed

悩ますのも救うのも「君」

昨日は久しぶりにぐっすり眠れた!やった。

モーツァルトなんか聴かなくたって、人間は安らぎを感じれば寝る。何百年も聴かれている奇跡のように美しい音楽も、たった一人の人間の存在や心の安らぎに勝てない。音楽は音楽でしかない。音楽は「人間が」奏でている、その絶対的な「優位性」がある以上、音楽はたった一人の人間にさえ勝てない。

部屋の電気を消して、しばらく色んなこと考えてて昨日はたまたま上手く頭の中を整理できたのが良かった。ここにも覚え書きしとこ。

過去は「過去」として決然たる態度を持って扱うのが潔く、そんな生き方が美徳とされる大人の世界の扉はとっくに開け放たれていた。そんな世界にいるのは重々承知の上で、こっそり自分の部屋で隠し持った過去の「失敗のコレクション」を並べては、子供時代の宝物のように懐かしく眺めていた。

無垢な表現を使ってみたが、実際はナルシスティックな感傷に浸ることでしか得られないカタルシスをむさぼっているだけだ。経験というのは自分の中に無意識的に息づいているし、どこからともなく情報は伝わって他人はそれを面白おかしく語り合うのだから、振り返る必要なんてないのかも。

失敗の種類を沢山知っていることは良いことだと信じてる。でも自分のいないところで面白おかしく語られるのは、あまり気持ちの良いものじゃない。それが自分の宿命なんだと受け入れていても、僕の知らないところで「虚像」が一人歩きしていつのまにか、自分が「自分」でなくなってしまうのは少し怖かったりもするよ。

飛び降りちゃったんだもの、パラシュートが開いてくれなきゃ困るんだ

そんな冗談を言いながら本当はけっこう必死に生きてたりするよな。でもパラシュートが開かなかくて墜落したからといって死ぬわけでもない、こうして僕は今日もつまらない戯言を吐きながらちゃんと生きてる。失敗を誇らず恥じず、密かに確かにわが身の血肉とし未来を生きよう。そして迷ったら勇気のいる方へ。

勇気のいる方へ。


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