◆ 2002.06.30 Sun
発見させる芸術
現代のアーティストを目指す若者は「娯楽型芸術」に走りすぎていて芸術というものを履き違えているようなところがあり、中途半端な人間が。近・現代の芸術家は特に自分の作品に何らかの主張を伴わせて発表してきたというのに、これは忌むべき状況だ!
アーティスト志望の人は作品をステップアップの「道具」にしなければいけないから、鑑賞する人を楽しませるいわゆる「娯楽型芸術」に走るのはある意味仕方ないことだと思う。芸術を履き違えざるを得ない厳しい土壌がそこにあるのもまた事実なのだ。
しかしながら、結局その中で世に残っていくのは自分の主張を画期的なアイディアで伝えられる人だけなのだから、トータルでみればバランスは結構とれているのではないだろうか。
「近・現代の芸術家は特に自分の作品に何らかの主張を伴わせて発表してきた」という指摘があったが。近代の芸術家は「国家の検閲」という第二の敵がいて実際ストレートな主張はできていなかったと思う。つまり精緻なメタファーでできたオブラートで作品を包み込まなければならなかった。それが真実ではないだろうか。実際、偽善と曖昧さに満ちた作品は多い。
僕たちの言ういわゆる「偉大な芸術家」が残したのは、「主張」する芸術というよりは「発見」させる芸術といっほうが適切だと思う。19〜20世紀にかけて、革新的な芸術家達が次々に現れて新しい表現世界を開拓していった。彼らの作品に見られる色彩や造形などは一般大衆の持っている既成の常識をはるかに超越したものだった。
でも、それらは単に主張するものではなく、習慣的なモノの見方では気がつかない側面を発見させてくれるものだった。そこでは「何が」描かれているか以上に「どのように」描かれているのかが重要になる。つまり色や形そのものの持つ「力」がもっとも重要視されたと思う。
ここからはその「発見」の例をいくつか挙げていきたい。
サルヴァトーレ・ダリは一般的にシュルレアリスム(超現実主義)と言われている。ここでいう「超現実」というのは現実離れしているとか、非現実的であるとかいう意味ではなく、現実性が度を超えて高いという、つまりは現実以上の現実ということだ。(*1)
しかし、彼の作品は現実的ではない。これは僕らが現実であると認識している「世界」は、世界のほんの一部なのかもしれない。という新しい認識を与えてくれる。人間の潜在意識を見つめるダリの視点は僕らにとっては正に新しい「発見」といえるだろう。
パブロ・ピカソはキュービスムという立場から別の方向から見た姿を同じ平面上に描くという独特の方法を模索した。ピカソはモノを見ること、認識することを、先入観のない新鮮な目で問い直して、その成果(≒実験)を絵画によって見せてくれる。それらがたとえ奇妙な姿をしていても、その方が実際のそれらしさよりも、その「人間」をよりよく表現できる場合もあるんだということを教えてくれる。
この「発見」を通して、例えば西洋で発明された遠近法は平面上に奥行きのある像を見せるけど、その立体感は見せかけだってことに改めて気付かされるかもしれない。「写実≠現実」、これも大きな「発見」だ。
クリストのように大規模な建築、風景をそのまま梱包するという大胆なプロジェクトは、普段は気づくことのないフォルムや質感、『存在』そのものを感じさせる、それどころか目には見えない歴史の重みやその存在意義までが浮かび上がらせる。これは物凄い「発見」だと思う。クリストは布を使って、普段見慣れている光景をまったく新しいものに一変させてしまう。
ここからは、芸術を感受する側(一般大衆)の立場も踏まえながら話していきたい。「芸術」を感受する側にはいろいろな人がいる。若者は「考えさせられる芸術(主張される芸術)」を好むから、厭世的で暗いものや、酷く諧謔めいたものに喩えようのない快楽を覚えたりする。 でもそうやって強烈な主張と向き合うには、感受する側に覚悟や自信みたいなのが必要であり、感受者全体を概観するごく一部なのではないかとおもう。
鑑賞する者を純粋に楽しませてくれる「娯楽型芸術」を求めている人は多い。確かに現代社会において主張しなければならない事は山ほどあるし主張の時代に終わりはない、それも確かな事実だが、同じように、「娯楽型芸術」の時代にも終わりはないのではないだろうか。
お互いの存在価値を脅かし合うと、かえって芸術世界全体の多様性もしくは可能性に制限を与えることになってしまう、それはある意味とても恐ろしい事だ。娯楽型芸術と主張型芸術は共存していけば良いと僕は思う。
中途半端な芸術家が多い事についてはある程度仕方ない。今の僕らみたいなアマチュアの演奏家も、もしかすると皆そこに該当してしまうわけだ。(笑)ついこの間、都響の首席チェロ奏者の古川展生さんと飲む機会があった、古川さんと色々なことを語り合っている中で彼は、
アマチュアとプロはどちらも芸術の世界には不可欠な要素、お互いが影響を受け合って活発にディスカッションしていけば良い。
なんて事を言っていた。
つまらない先入観が芸術のカテゴリーを狭くする様な事があってはいけないと思う。広げていけば「芸術の坩堝(るつぼ)」は地球を包み込んでしまうくらい大きくなると思う。
(*1)シュルレアリスムは本来、「シュルレエル(超現実)・イスム(主義)」という意味であったのに、日本人が勝手に読みやすいように言葉を区切ったため、「シュル(超)・レアリスム(現実主義)」と解釈されてしまった。ここでの「超」は英語で言うなら「ultra-」「super-」などの接頭辞が適当であり、「beyond」とか「above」のような前置詞は当てはまらない。この「和製シュルレアリスム」の呪縛は未だに解けず、間違った意味があまりにも広く蔓延したためそのまま定義になってしまった。(そう考えると和製英語「シュール」の意味も間違いという事になる)
| Home |
