◆ 2002.10.26 Sat
アマチュアオケの存在意義
オーケストラの演奏会というのは沢山の「人」によって成り立っている、そしてその人の数だけの「想い」というものが存在している。それは目には見えないし、全てを認識することなんて到底無理だけど、そういったものが密に絡み合い、束となり音楽は生まれてくると思う。
「アマチュアオーケストラ」…いくらでも中傷出来るし、蔑むことの出来る存在だ。僕らはプロの仕事を奪うわけでもないし、ましてそんなことは出来ない。じゃあ僕達はなぜ演奏会を開くのか、それは空しい自慰行為にすぎないのか?
高校時代、甲子園に感動できるのにプロ野球に感動できない自分がいた、「同じ野球をしているのに何故?」当時の自分はずっとそれを考えていた。そして、それはやはり一つの試合にかける「思い(想い)」なんだと気付かされた。同じことが音楽にも言えるんじゃないかと思う。
演奏会は「花火」に似てる気がする。
本番でどんな大きさになるかわからないけど、とにかく必死で火薬を詰め続ける。勿論プロじゃないから不完全な花火になることも多いけど、「詰め過ぎ」が許されるのもアマチュアの特権である。
僕はそこを大事にしていきたい。プロオケのまるで消化試合のようで退屈な定期公演よりも魅力ある演奏会、そんな演奏会が出来たら最高だなといつも思っている。僭越な話だが。
でも聴衆の立場から言うとプロオケが時々つまらない演奏をすることは(悲しいことだが)事実である。
「アマチュアオーケストラ」…いくらでも中傷出来るし、蔑むことの出来る存在だ。僕らはプロの仕事を奪うわけでもないし、ましてそんなことは出来ない。じゃあ僕達はなぜ演奏会を開くのか、それは空しい自慰行為にすぎないのか?
高校時代、甲子園に感動できるのにプロ野球に感動できない自分がいた、「同じ野球をしているのに何故?」当時の自分はずっとそれを考えていた。そして、それはやはり一つの試合にかける「思い(想い)」なんだと気付かされた。同じことが音楽にも言えるんじゃないかと思う。
演奏会は「花火」に似てる気がする。
本番でどんな大きさになるかわからないけど、とにかく必死で火薬を詰め続ける。勿論プロじゃないから不完全な花火になることも多いけど、「詰め過ぎ」が許されるのもアマチュアの特権である。
僕はそこを大事にしていきたい。プロオケのまるで消化試合のようで退屈な定期公演よりも魅力ある演奏会、そんな演奏会が出来たら最高だなといつも思っている。僭越な話だが。
でも聴衆の立場から言うとプロオケが時々つまらない演奏をすることは(悲しいことだが)事実である。
◆ 2002.10.19 Sat
コンサートマスターについて
ある後輩から電話が来て、こんな質問をされた。
「コンマスになりたいんですけど、どうしたら良いですか?」
自分の意見も言わずにとりあえず「どうしたら良いか」と質問してくる時点で、不適格な人間だなと思ったのだが、その微妙な電話をきっかけに、コンサートマスターという存在とそこに求められる資質と役割について再考することになった。
ただここで書かれる「コンマス像」はあくまで僕の経験してきて感じたものを元に書いているので、オケによっては全く違うということもあるかもしれない。
しかし楽器に関わらず、オーケストラをやっている人間ならこの役職を知ることはとても重要だと思うので、ここにも掲載することにした。
まず、コンマスになりたいと思っている人は、色々な楽器を聴けるようにしなければならないと思う。周りを聴ける耳、それはコンマスになってからどうこう出来る話ではない、普段から十分に耳を鍛えておく必要がある。
まずは今やっている曲のスコアは必ず手に入れて、スコア・リーディングを綿密にやる習慣を付けておくと良い。曲の構造がわかって初めて演奏中に他の楽器の音・動きが鮮明に聴こえてくるようになる。コンマスは自分の楽器だけでなく管駄楽器についての情報も知る必要がある、
つまり常に「指揮者的」な視点を持たなければならない。自分で精一杯ではいけないのだ。
ところが「コンサート・マスター」を「ヴァイオリン・マスター(もちろんそんな役職名は存在しない)」と勘違いしている人間は結構多い。そのため、殆どの指揮者はアマチュア・オケ相手ではヴァイオリン・マスター程度の扱いをする、それは学生オケのコンマスの殆どが実際ヴァイオリン・マスターに成り下がってしまっているからだ。その役を務めている本人も無意識にヴァイオリン・マスターになってしまっていて、それ以上の努力をしないことが多い。
コンマスに与えられる役割と求められる経験を考えてみる。
あの席に座ってオケを率いたことのある人間にはわかると思うが、コンマスは本当にシヴィアなポストだ。プロの世界を見ても、コンマスのギャランティーが普通の団員より若干高いのは(公平性を重視して同じ額にするオケも増えているらしいが)、何も形式的なものではなくそれだけの「責任」があるからだ。
コンマスのアンサンブル力がオケのアンサンブルを決めるという点も見逃せない、そもそもオケにとって指揮者は音楽の「きっかけ」にすぎない。「全員で指揮者に合わせよう!」という言葉が学生オケでたまに飛び交うことがあるが、この言葉は一見正しいようで少し間違っている。
指揮者の棒を「きっかけ」にしてコンマス初めトップ陣同志が呼吸を合わせ、それをアインザッツを出すなどして後ろに伝えることでアンサンブルとテンポは決まっていくものである。従って後ろの奏者からも見えるようコンマスは椅子を高くすることが多い、そのために演奏会ではコンマスだけピアノ椅子というのが慣例になっている。
ここまで読んでいただければ、100人以上の人間の「音楽」に等しい重さが「責任」としてのしかかってくるのが解ると思う。それはもう逃げ出したくなるくらいの重さである。
そう考えると「技術」どうこうだけでなく「人間性」も問われてくるのがわかる、信頼と憧憬を得られない人間が多くの人間を引っ張ろうとしても中々上手く行かない。これもコンマスになってからどうこう出来る話ではない、その人の「人間」という根源的な問題だから。コンマスは憧れとか気持ちだけで出来る職業ではない。
もちろん「人間が大事」とは言ったが、結局は技術(アンサンブル能力、テンポ感、リズム感…etc)が全ての根源になってしまうという一面もある。人間的に付いて行きたいと思う人間でも、そういう「技術」が無いと、元々あった「信頼」なんてものはいとも簡単に崩れていく。
そういう人が引っ張ろうとしても、誰も付いてこないというのが現実である。そして最後はコンマス本人が病んでしまうのだ、怖い。実際、僕はそういう状況が色んなオケで起きているのを見てきた。
本当にシビアな役職だと思う、「やる気」だけじゃ何にも出来ない。そのシビアさを噛み締めそして楽しみながらやれる人じゃないと中々できない仕事だと思う。
「あそこに座ったらかっこいいなぁ…」なんていう子供みたいな気持ちだけでコンマスになろうとするなら絶対やめた方が良いと思う、そんな楽しいだけのポストでは決してないので。
まして「なりたい!なりたい!」ってオーラを出しまくって、しまいにはコンマスになれなかったらオケを辞めるだの辞めないだのと周りを騒ぎたてる人間は論外、オケにとっては迷惑である。そんな脅迫じみた強引なプロセスで得た地位で一体何がしたいのか理解に苦しむ、というか何もできなくなるのが現実である。
そういう人間はコンマスになる前に、大人にならなければならない。
まぁ、僕がその「コンサート・マスター」としての正しい役割を果たせていたかどうかは甚だ疑問である。でも完全にそうはなれなくても「本当はそういう仕事をする役職なんだ」ということを重々承知した上でコンサートマスターをやると色々違ってくるんじゃないかと思う、「なんとなく」やられてしまうのが一番オケにとっては怖いことだから。
「コンマスになりたいんですけど、どうしたら良いですか?」
自分の意見も言わずにとりあえず「どうしたら良いか」と質問してくる時点で、不適格な人間だなと思ったのだが、その微妙な電話をきっかけに、コンサートマスターという存在とそこに求められる資質と役割について再考することになった。
ただここで書かれる「コンマス像」はあくまで僕の経験してきて感じたものを元に書いているので、オケによっては全く違うということもあるかもしれない。
しかし楽器に関わらず、オーケストラをやっている人間ならこの役職を知ることはとても重要だと思うので、ここにも掲載することにした。
まず、コンマスになりたいと思っている人は、色々な楽器を聴けるようにしなければならないと思う。周りを聴ける耳、それはコンマスになってからどうこう出来る話ではない、普段から十分に耳を鍛えておく必要がある。
まずは今やっている曲のスコアは必ず手に入れて、スコア・リーディングを綿密にやる習慣を付けておくと良い。曲の構造がわかって初めて演奏中に他の楽器の音・動きが鮮明に聴こえてくるようになる。コンマスは自分の楽器だけでなく管駄楽器についての情報も知る必要がある、
つまり常に「指揮者的」な視点を持たなければならない。自分で精一杯ではいけないのだ。
ところが「コンサート・マスター」を「ヴァイオリン・マスター(もちろんそんな役職名は存在しない)」と勘違いしている人間は結構多い。そのため、殆どの指揮者はアマチュア・オケ相手ではヴァイオリン・マスター程度の扱いをする、それは学生オケのコンマスの殆どが実際ヴァイオリン・マスターに成り下がってしまっているからだ。その役を務めている本人も無意識にヴァイオリン・マスターになってしまっていて、それ以上の努力をしないことが多い。
コンマスに与えられる役割と求められる経験を考えてみる。
あの席に座ってオケを率いたことのある人間にはわかると思うが、コンマスは本当にシヴィアなポストだ。プロの世界を見ても、コンマスのギャランティーが普通の団員より若干高いのは(公平性を重視して同じ額にするオケも増えているらしいが)、何も形式的なものではなくそれだけの「責任」があるからだ。
コンマスのアンサンブル力がオケのアンサンブルを決めるという点も見逃せない、そもそもオケにとって指揮者は音楽の「きっかけ」にすぎない。「全員で指揮者に合わせよう!」という言葉が学生オケでたまに飛び交うことがあるが、この言葉は一見正しいようで少し間違っている。
指揮者の棒を「きっかけ」にしてコンマス初めトップ陣同志が呼吸を合わせ、それをアインザッツを出すなどして後ろに伝えることでアンサンブルとテンポは決まっていくものである。従って後ろの奏者からも見えるようコンマスは椅子を高くすることが多い、そのために演奏会ではコンマスだけピアノ椅子というのが慣例になっている。
ここまで読んでいただければ、100人以上の人間の「音楽」に等しい重さが「責任」としてのしかかってくるのが解ると思う。それはもう逃げ出したくなるくらいの重さである。
そう考えると「技術」どうこうだけでなく「人間性」も問われてくるのがわかる、信頼と憧憬を得られない人間が多くの人間を引っ張ろうとしても中々上手く行かない。これもコンマスになってからどうこう出来る話ではない、その人の「人間」という根源的な問題だから。コンマスは憧れとか気持ちだけで出来る職業ではない。
もちろん「人間が大事」とは言ったが、結局は技術(アンサンブル能力、テンポ感、リズム感…etc)が全ての根源になってしまうという一面もある。人間的に付いて行きたいと思う人間でも、そういう「技術」が無いと、元々あった「信頼」なんてものはいとも簡単に崩れていく。
そういう人が引っ張ろうとしても、誰も付いてこないというのが現実である。そして最後はコンマス本人が病んでしまうのだ、怖い。実際、僕はそういう状況が色んなオケで起きているのを見てきた。
本当にシビアな役職だと思う、「やる気」だけじゃ何にも出来ない。そのシビアさを噛み締めそして楽しみながらやれる人じゃないと中々できない仕事だと思う。
「あそこに座ったらかっこいいなぁ…」なんていう子供みたいな気持ちだけでコンマスになろうとするなら絶対やめた方が良いと思う、そんな楽しいだけのポストでは決してないので。
まして「なりたい!なりたい!」ってオーラを出しまくって、しまいにはコンマスになれなかったらオケを辞めるだの辞めないだのと周りを騒ぎたてる人間は論外、オケにとっては迷惑である。そんな脅迫じみた強引なプロセスで得た地位で一体何がしたいのか理解に苦しむ、というか何もできなくなるのが現実である。
そういう人間はコンマスになる前に、大人にならなければならない。
まぁ、僕がその「コンサート・マスター」としての正しい役割を果たせていたかどうかは甚だ疑問である。でも完全にそうはなれなくても「本当はそういう仕事をする役職なんだ」ということを重々承知した上でコンサートマスターをやると色々違ってくるんじゃないかと思う、「なんとなく」やられてしまうのが一番オケにとっては怖いことだから。
◆ 2002.10.15 Tue
生きるためにこそ死ぬのだ!
死について考える。
「生きる」ということは死に向かうだけの冷たい現実に気付き恐怖を覚えた人間が、後から一生懸命作った概念だと思う。でもそれがカウンターパートとして存在している以上、人間は現実眼前の「死」から目をそむける事はとうとうできなかったわけだ。
マーラーの交響曲第2番「復活」という曲がある。好きな交響曲は?と聞かれると必ず挙げている大好きな曲だ。しかし僕は父の死を経験した直後に、「私は、生きるために死ぬのだ!」というくだりも含めて、マーラーのある種の「逃避的」な姿勢に歯がゆさのようなものを覚えたことがある。
「死」というあまりにも重い現実に「生」や「宗教」という透明なエッセンスを混ぜぼかすのは、多くの人間が行き着くある種の究極的な結論ともいえるが、リアリスティックに見ればただの逃避に過ぎない。その事実が、僕に歯痒さを感じさせた原因だったと思う。
結論からいうと、現実を「受け入れること」は必要であり、避けてはいけないプロセスだと思う。そういうプロセスを踏まずに、いきなり音楽やロマンティシズムに逃げているばかりでは、いつまでも「夢の住人」のままである。それは本当に「生きている」といえるのだろうか。
現実を一度受け入れたうえで生きようと思った人間にこそ、彼の音楽は雄弁に意味深く響くのではないかと思う。
「生きるためにこそ死ぬのだ!」
「生きる」ということは死に向かうだけの冷たい現実に気付き恐怖を覚えた人間が、後から一生懸命作った概念だと思う。でもそれがカウンターパートとして存在している以上、人間は現実眼前の「死」から目をそむける事はとうとうできなかったわけだ。
マーラーの交響曲第2番「復活」という曲がある。好きな交響曲は?と聞かれると必ず挙げている大好きな曲だ。しかし僕は父の死を経験した直後に、「私は、生きるために死ぬのだ!」というくだりも含めて、マーラーのある種の「逃避的」な姿勢に歯がゆさのようなものを覚えたことがある。
「死」というあまりにも重い現実に「生」や「宗教」という透明なエッセンスを混ぜぼかすのは、多くの人間が行き着くある種の究極的な結論ともいえるが、リアリスティックに見ればただの逃避に過ぎない。その事実が、僕に歯痒さを感じさせた原因だったと思う。
結論からいうと、現実を「受け入れること」は必要であり、避けてはいけないプロセスだと思う。そういうプロセスを踏まずに、いきなり音楽やロマンティシズムに逃げているばかりでは、いつまでも「夢の住人」のままである。それは本当に「生きている」といえるのだろうか。
現実を一度受け入れたうえで生きようと思った人間にこそ、彼の音楽は雄弁に意味深く響くのではないかと思う。
「生きるためにこそ死ぬのだ!」
◆ 2002.10.14 Mon
大学オケを考える
「大学オケ」というのは本当に悩ましい場所である。
その中でも最も悩ましいのは「モチベーションの格差」だろう。「楽しくやろうっ!」と体裁のいいことは言っても、結局はそのフランクさとルーズさに甘えているだけの人と、「楽しくやる」にはある程度苦しいプロセスが必要だと考える人に分かれていることが多い。僕は言うまでもなく後者の立場である。
多くの大学オケはプロの指揮者を招聘して音作りをしている。マエストロを自分達の音楽を演奏会やるのに恥ずかしくない程度に直してもらう、ただの「修理屋」にしてはいけないと思う。本来指揮者は「表現者」であるべきだし、こちらから招聘しておいてそれはとても失礼なことだと思う。
もちろん「楽しくやる」ことは、自分の中に常にあるテーマ。でも人からお金を取って演奏を聴いてもらうのは大変な事なのである、僕も今までオーケストラやってきてそれを痛感している。
「自分達の演奏会を開くんだ!」という喜びやプライドは誰もが持っているけど、それに見合う努力がなされていない人間は多い。特に弦楽器は人数が多いだけ責任の分割が起こって、そういう人が多く見受けられる。
弦楽器のソロ出身の人にも技術で何となく乗り切れるだけに、そういう人が多い。先生に恵まれなかったせいもあるのかも知れないが…残念だ。環境というのは恐ろしいと思う。
いい歳して「発表会」や「学芸会」みたいな気分で、演奏会に取り組んでいる人を見るとちょっと悲しくなる。
所詮はアマチュア?アマチュアだからこそ全力でやらないと人には聴かせられないんだと言いたい。そしてアマチュアだからこそプロが「倦怠」とともに失っていく情熱をいつまでも持ちつづけ全力が出せるのだと。
といいつつ、最近僕の所属しているオケはその点に置いてはかなり良い方向に向かっている。団員一人一人のモチベーションも年々高まってきているし、義務ではなく純粋に「音楽(楽器を演奏すること)が好きだから」という理由でオーケストラに関わっている人間が多くなったように思う。嬉しいことだ。
その中でも最も悩ましいのは「モチベーションの格差」だろう。「楽しくやろうっ!」と体裁のいいことは言っても、結局はそのフランクさとルーズさに甘えているだけの人と、「楽しくやる」にはある程度苦しいプロセスが必要だと考える人に分かれていることが多い。僕は言うまでもなく後者の立場である。
多くの大学オケはプロの指揮者を招聘して音作りをしている。マエストロを自分達の音楽を演奏会やるのに恥ずかしくない程度に直してもらう、ただの「修理屋」にしてはいけないと思う。本来指揮者は「表現者」であるべきだし、こちらから招聘しておいてそれはとても失礼なことだと思う。
もちろん「楽しくやる」ことは、自分の中に常にあるテーマ。でも人からお金を取って演奏を聴いてもらうのは大変な事なのである、僕も今までオーケストラやってきてそれを痛感している。
「自分達の演奏会を開くんだ!」という喜びやプライドは誰もが持っているけど、それに見合う努力がなされていない人間は多い。特に弦楽器は人数が多いだけ責任の分割が起こって、そういう人が多く見受けられる。
弦楽器のソロ出身の人にも技術で何となく乗り切れるだけに、そういう人が多い。先生に恵まれなかったせいもあるのかも知れないが…残念だ。環境というのは恐ろしいと思う。
いい歳して「発表会」や「学芸会」みたいな気分で、演奏会に取り組んでいる人を見るとちょっと悲しくなる。
所詮はアマチュア?アマチュアだからこそ全力でやらないと人には聴かせられないんだと言いたい。そしてアマチュアだからこそプロが「倦怠」とともに失っていく情熱をいつまでも持ちつづけ全力が出せるのだと。
といいつつ、最近僕の所属しているオケはその点に置いてはかなり良い方向に向かっている。団員一人一人のモチベーションも年々高まってきているし、義務ではなく純粋に「音楽(楽器を演奏すること)が好きだから」という理由でオーケストラに関わっている人間が多くなったように思う。嬉しいことだ。
◆ 2002.10.11 Fri
吟味された価値観
時々つい感傷的になってしまい、自分を責め立ててしまう時がある。
自分の中に自虐的な(或いは自嘲的な)一面がむき出しになりそれが、暴走し始めてしまう。しかし落ち着きを取り戻した時に、いつも思うことがある。
「僕は自分で思っている以上に幸せな人間かもしれない。」
自虐・自嘲にに快感を覚えている人間は実際多いようで、それは現代日本の若者の悪い癖のようだ。逆にアメリカの友人には、やたら自信過剰なおバカさんが沢山いるわけだが。どっちもどっちである。でもその分彼らの「自己表現」は素晴らしく上手い。
他人をただひたすら否定し続ける捻くれた人間に比べたら、自虐・自嘲行為は可愛い一人相撲だと思う。他者を否定することが悪いわけではない、その後に何も残さない人間が嫌いなのだ。カウンターパート抜きに否定するのも若者の悪い癖である、否定だけするのはとても楽なのだが。同世代の若者とディベートなんかやってるとそれが露呈してくる。
「ちったあ、弁証法を学べ!」
と自分も含めて言ってみるテスト。
物事の判断はプラス、マイナス両面を「認知」してから下すべきだと思う。直感や第一印象だけで物事に対して安直に判断下してしまうのでは、それ以上何も生まれないし勿体無いと僕は思う。これは人間関係においても日常生活においても重要だ。
音楽にしてもそうだ。カラヤン信仰が未だにある中で、アンチ・カラヤン信仰があるのもまた事実であり。ろくにカラヤンの録音を聴いたことがないまま 、「カラヤンなんて…」と言ってしまう人間は多い。僕もカラヤンはあまり好きでないが、主要録音は殆ど聴いたし彼の長所もわかった上で嫌っているつもりである(笑)。
「溺れたい。溺れたくない。」の記事の中に書いたことにも通じていくが、世間のステレオタイプに流されて自分の「(総合的な意味での)味覚」を失ってはいけないと思う。実際自分の周りの人間を見れば、価値判断をきちんと自分で「吟味」してきた人間の多くは、含蓄もあるし、正しい「味覚」を持っていることが解るだろう。
勿論、その作られてきた価値観そのものが捻くれてしまうと、ただの「変な人」になってしまうわけだが。だからこそ他人と色々なことを話し合うことが重要なんだと思う、「主観」に「客観」という新しい視点を加えてくれる友人は貴重な存在である。そしてその話の中で相手の意見をただ頭ごなしに否定するのではなく、それを取り入れて弁証法的に昇華していくのが一番良いのだろう。理想論だとは思わない、僕の周りには現実にそういう素晴らしく出来た人間が沢山いるのだ。
自分の中に自虐的な(或いは自嘲的な)一面がむき出しになりそれが、暴走し始めてしまう。しかし落ち着きを取り戻した時に、いつも思うことがある。
「僕は自分で思っている以上に幸せな人間かもしれない。」
自虐・自嘲にに快感を覚えている人間は実際多いようで、それは現代日本の若者の悪い癖のようだ。逆にアメリカの友人には、やたら自信過剰なおバカさんが沢山いるわけだが。どっちもどっちである。でもその分彼らの「自己表現」は素晴らしく上手い。
他人をただひたすら否定し続ける捻くれた人間に比べたら、自虐・自嘲行為は可愛い一人相撲だと思う。他者を否定することが悪いわけではない、その後に何も残さない人間が嫌いなのだ。カウンターパート抜きに否定するのも若者の悪い癖である、否定だけするのはとても楽なのだが。同世代の若者とディベートなんかやってるとそれが露呈してくる。
「ちったあ、弁証法を学べ!」
と自分も含めて言ってみるテスト。
物事の判断はプラス、マイナス両面を「認知」してから下すべきだと思う。直感や第一印象だけで物事に対して安直に判断下してしまうのでは、それ以上何も生まれないし勿体無いと僕は思う。これは人間関係においても日常生活においても重要だ。
音楽にしてもそうだ。カラヤン信仰が未だにある中で、アンチ・カラヤン信仰があるのもまた事実であり。ろくにカラヤンの録音を聴いたことがないまま 、「カラヤンなんて…」と言ってしまう人間は多い。僕もカラヤンはあまり好きでないが、主要録音は殆ど聴いたし彼の長所もわかった上で嫌っているつもりである(笑)。
「溺れたい。溺れたくない。」の記事の中に書いたことにも通じていくが、世間のステレオタイプに流されて自分の「(総合的な意味での)味覚」を失ってはいけないと思う。実際自分の周りの人間を見れば、価値判断をきちんと自分で「吟味」してきた人間の多くは、含蓄もあるし、正しい「味覚」を持っていることが解るだろう。
勿論、その作られてきた価値観そのものが捻くれてしまうと、ただの「変な人」になってしまうわけだが。だからこそ他人と色々なことを話し合うことが重要なんだと思う、「主観」に「客観」という新しい視点を加えてくれる友人は貴重な存在である。そしてその話の中で相手の意見をただ頭ごなしに否定するのではなく、それを取り入れて弁証法的に昇華していくのが一番良いのだろう。理想論だとは思わない、僕の周りには現実にそういう素晴らしく出来た人間が沢山いるのだ。
◆ 2002.10.09 Wed
昔見た「未来」
「自分自身に悩める」ということのは青春時代の特権かもしれない。
「大人(この言葉はあまりにも曖昧な概念だが)」という類型は確かに存在していて、自分もそこに含まれたと思った瞬間から、人間は一歩身を引いて物事と向き合うようになってしまう気がする。もちろんそれは人それぞれだし、誰もがそうであるとは思わないけれど。
ある程度大人になると「悩んだところでもう変われはしないんだ」という意識(≒妥協)が芽生えてくるというか。まぁ毎日の生活(仕事)のことでいっぱいいっぱいになってしまっているというのも大きい理由なのだろうけど…なんだか淋しい感じがする。仕方ないのだけれど。
いわゆる「モラトリアム期」というのは、ある意味で人生で最も輝いていた時期なのではとさえ思ってしまう。まだ何にもなっていない若者にとって「未来」はフロンティアのように地平線の彼方まで広がっていて(もちろんそれは霞がかっていてディティールまでを見ることは出来ないのだけど)、そこにまるで無限の可能性があるかのような幻想を抱く。
そのフロンティアにいよいよ足を踏み入れると、霞がかっていた景色が少しずつはっきりと見えてくる。そして多くの人間はそこで初めて、自分の可能性には「限界」があるという事を思い知る。殆どの人はそこで「自分の夢」に折り合いをつけて歩みを進めていくが、中にはそこで失望しそのまま座り込んでしまう者もいる。
現実の世界は、子供の頃に思い描いていたものとは程遠い。しかし、そのリアルで冷たい世界であることを思い知った時に、本当の意味で人間は「試されている」と思う。さあ、この世界をどう歩いていこうか。座り込んでいる暇などない、歩みを進めなければ…。
「大人(この言葉はあまりにも曖昧な概念だが)」という類型は確かに存在していて、自分もそこに含まれたと思った瞬間から、人間は一歩身を引いて物事と向き合うようになってしまう気がする。もちろんそれは人それぞれだし、誰もがそうであるとは思わないけれど。
ある程度大人になると「悩んだところでもう変われはしないんだ」という意識(≒妥協)が芽生えてくるというか。まぁ毎日の生活(仕事)のことでいっぱいいっぱいになってしまっているというのも大きい理由なのだろうけど…なんだか淋しい感じがする。仕方ないのだけれど。
いわゆる「モラトリアム期」というのは、ある意味で人生で最も輝いていた時期なのではとさえ思ってしまう。まだ何にもなっていない若者にとって「未来」はフロンティアのように地平線の彼方まで広がっていて(もちろんそれは霞がかっていてディティールまでを見ることは出来ないのだけど)、そこにまるで無限の可能性があるかのような幻想を抱く。
そのフロンティアにいよいよ足を踏み入れると、霞がかっていた景色が少しずつはっきりと見えてくる。そして多くの人間はそこで初めて、自分の可能性には「限界」があるという事を思い知る。殆どの人はそこで「自分の夢」に折り合いをつけて歩みを進めていくが、中にはそこで失望しそのまま座り込んでしまう者もいる。
現実の世界は、子供の頃に思い描いていたものとは程遠い。しかし、そのリアルで冷たい世界であることを思い知った時に、本当の意味で人間は「試されている」と思う。さあ、この世界をどう歩いていこうか。座り込んでいる暇などない、歩みを進めなければ…。
◆ 2002.10.09 Wed
マーラー「交響曲第5番」について
僕の叔父さんにマーラー好きの人がいて、その人の影響で高校時代からマーラーを聴き始めるようになった。
叔父さんは沢山のマーラーのCDを持っていて主要録音はほとんど揃っていたので、それらを聴き比べして、解釈の違いや指揮者の思想と解釈の関係性などを学んだ覚えがある。仕舞いには自分もマーラーにハマり交響曲全集を買い集めるほどになってしまった。
今日はマーラーの交響曲第5番(以下マラ5)の話。マラ5は4楽章アダージェットばかりが有名になっていて、この楽章だけ単独で演奏されることも多い。マラ5は5楽章が4楽章に対する一つの答えのような相対関係にあるので、個人的には4楽章を聴くならば併せて終楽章も聴いてもらいたい。というか全部聴いて欲しい。(笑)
でも、確かに4楽章アダージェットは名曲だと思う。ハープの静謐な響きから零れ落ちるように現われる弦楽器の囁き、その囁きは折り重ねられていき、やがて絶叫へと変わる。壮絶で悲しく、そして美しい音楽だ。
アダージェットが単独で演奏されるのにも頷ける。でもあれをいわゆる「癒し系」的な音楽のコンピレーションアルバムに入れるのはどうかと思う。アダージョ・カラヤンとか。まぁそういうのもマーラーに興味を持つきっかけと考えたら良いことなのかもしれないが。
このアダージェットはヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」に使われていることでも有名である、この映画は簡単にいうと美少年の美しさにはまってしまう老作家の物語。しかし映画が公開される前からこの曲は有名だったらしく、ワルターやメンゲルベルクといった巨匠たちがこの楽章だけの録音を戦前に行っているそうだ。やっぱりこの曲には不思議な魅力があるのだろう。
今度自分のオーケストラの男だけを集めて「漢(おとこ)弦楽合奏団」を結成し、このマラ5のアダージェットを演奏するというプロジェクトを進めている。自分はコンマス兼指揮者として演奏する予定、男だけだった時代のベルリン・フィルを彷彿させるような渋いサウンドで「男の哀愁」を表現したいと思う。とても楽しみだ。
―余談。
マラ5番冒頭の「タタタターン」というソロ・トランペットの勇壮な旋律は同じ「第5番」であるベートーヴェンの「運命」からとってきたモチーフだといわれている。どんな作曲家もやはり交響曲の数字は意識してしまうものなのだろう。この「交響曲の数字」についてもいずれ語っていこうと思う。
叔父さんは沢山のマーラーのCDを持っていて主要録音はほとんど揃っていたので、それらを聴き比べして、解釈の違いや指揮者の思想と解釈の関係性などを学んだ覚えがある。仕舞いには自分もマーラーにハマり交響曲全集を買い集めるほどになってしまった。
今日はマーラーの交響曲第5番(以下マラ5)の話。マラ5は4楽章アダージェットばかりが有名になっていて、この楽章だけ単独で演奏されることも多い。マラ5は5楽章が4楽章に対する一つの答えのような相対関係にあるので、個人的には4楽章を聴くならば併せて終楽章も聴いてもらいたい。というか全部聴いて欲しい。(笑)
【推薦盤】
●バーンスタイン/ウィーン・フィル/DG (87年)
初めて聴いた特はその「うねり」にショックを受けた、ゆっくりとしたテンポで粘っこく濃厚に歌いこまれている。これほど恣意的で没入しきった演奏も珍しい。
でも、確かに4楽章アダージェットは名曲だと思う。ハープの静謐な響きから零れ落ちるように現われる弦楽器の囁き、その囁きは折り重ねられていき、やがて絶叫へと変わる。壮絶で悲しく、そして美しい音楽だ。
アダージェットが単独で演奏されるのにも頷ける。でもあれをいわゆる「癒し系」的な音楽のコンピレーションアルバムに入れるのはどうかと思う。アダージョ・カラヤンとか。まぁそういうのもマーラーに興味を持つきっかけと考えたら良いことなのかもしれないが。
このアダージェットはヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」に使われていることでも有名である、この映画は簡単にいうと美少年の美しさにはまってしまう老作家の物語。しかし映画が公開される前からこの曲は有名だったらしく、ワルターやメンゲルベルクといった巨匠たちがこの楽章だけの録音を戦前に行っているそうだ。やっぱりこの曲には不思議な魅力があるのだろう。
今度自分のオーケストラの男だけを集めて「漢(おとこ)弦楽合奏団」を結成し、このマラ5のアダージェットを演奏するというプロジェクトを進めている。自分はコンマス兼指揮者として演奏する予定、男だけだった時代のベルリン・フィルを彷彿させるような渋いサウンドで「男の哀愁」を表現したいと思う。とても楽しみだ。
―余談。
マラ5番冒頭の「タタタターン」というソロ・トランペットの勇壮な旋律は同じ「第5番」であるベートーヴェンの「運命」からとってきたモチーフだといわれている。どんな作曲家もやはり交響曲の数字は意識してしまうものなのだろう。この「交響曲の数字」についてもいずれ語っていこうと思う。
◆ 2002.10.07 Mon
「風の谷のナウシカ」
子供の頃、ナウシカを初めて観て衝撃を受けた覚えがある。
地球の汚れを吸収し自らを腐敗させることで浄化するという、腐海に隠されていた驚くべき「エコ・システム」。それが僕の目には「十字架を背負うイエス」のように尊く映る、バッハの『マタイ受難曲』を思い出さずにはいられないような敬虔さ。ちょっと大袈裟だろうか。
でもそれが人間を苦しめている…これはものすごいアイロニーだと思う。人間は自然の一部であり同時に「異物」だと、まだ幼かった自分にはショックだった。
でも今考えると、「幼い自分」にもそうやって何かを伝えていたというのが重要なことだったんだと思う。自分に将来子供が出来たら見せてあげたいなと思うモノが宮崎作品には沢山詰まっている。
そういえば宮崎作品をただのコミカルな映像作品としてしか見ていない人は、決まって「千と千尋」を過小評価していた。でもそれは単にその人が無知なだけじゃないかと思う。表面的な解釈(≒先入観)だけで物事の全てを理解した気になる人は僕の周りにも沢山いる、浅はかだ。
抽象的なモノをどこまで真理へと昇華できるか…それはどんなシーンにおいても重要だと思う。それこそ宮崎作品には「優しく、大胆な」メッセージがギュッと詰まっているのだから。
それを感じなければ勿体無い、これはシンプルに「損得の問題」だと思う。
地球の汚れを吸収し自らを腐敗させることで浄化するという、腐海に隠されていた驚くべき「エコ・システム」。それが僕の目には「十字架を背負うイエス」のように尊く映る、バッハの『マタイ受難曲』を思い出さずにはいられないような敬虔さ。ちょっと大袈裟だろうか。
でもそれが人間を苦しめている…これはものすごいアイロニーだと思う。人間は自然の一部であり同時に「異物」だと、まだ幼かった自分にはショックだった。
でも今考えると、「幼い自分」にもそうやって何かを伝えていたというのが重要なことだったんだと思う。自分に将来子供が出来たら見せてあげたいなと思うモノが宮崎作品には沢山詰まっている。
そういえば宮崎作品をただのコミカルな映像作品としてしか見ていない人は、決まって「千と千尋」を過小評価していた。でもそれは単にその人が無知なだけじゃないかと思う。表面的な解釈(≒先入観)だけで物事の全てを理解した気になる人は僕の周りにも沢山いる、浅はかだ。
抽象的なモノをどこまで真理へと昇華できるか…それはどんなシーンにおいても重要だと思う。それこそ宮崎作品には「優しく、大胆な」メッセージがギュッと詰まっているのだから。
それを感じなければ勿体無い、これはシンプルに「損得の問題」だと思う。
◆ 2002.10.06 Sun
無宗教国家を考える
日本はいわゆる「無宗教国家」である。その「とらわれる何ものも無い」という事が価値の「多様性」に繋がったらすばらしいのだが…宗教対立を外から概観し相互の歩み寄りを促せるかもしれないという点では日本の国際的役割は大きいようにも思われる。
ところが実際はその「無宗教」が多くの人間を「虚無」へと追いやってしまっている気がしてならない、これはものすごく悲しいことだ。従って「日本には宗教はあっても信仰はない」という現実が、目下のあらゆる社会問題の源泉であるとみなす人間も多い。
確かにそういう一面は否めないと思う、ただ宗教(信仰)がある国に社会問題が無いかといえば決してそんなことはない。宗教の対立による戦争で、今まで一体どれだけ多くの人命が奪われていったかについては今更語るまでもないだろう。
でも宗教にしろ何にしろ、盲目的に全て信じきったような状態の人間は怖いし、生理的に好まない。崇拝者が「サリンを撒け」と言ったら、ホントに撒いちゃう人間がいるわけだから。まぁこれは極端な例だし、実際は盲目的どころか緻密な計画の下に行われた犯行だが。いずれにしても「狂信者」にはなりたくない。
頭が柔らかいうちに色々考えて行かなければ…と思う。ってもう手遅れか?(笑)
ところが実際はその「無宗教」が多くの人間を「虚無」へと追いやってしまっている気がしてならない、これはものすごく悲しいことだ。従って「日本には宗教はあっても信仰はない」という現実が、目下のあらゆる社会問題の源泉であるとみなす人間も多い。
確かにそういう一面は否めないと思う、ただ宗教(信仰)がある国に社会問題が無いかといえば決してそんなことはない。宗教の対立による戦争で、今まで一体どれだけ多くの人命が奪われていったかについては今更語るまでもないだろう。
でも宗教にしろ何にしろ、盲目的に全て信じきったような状態の人間は怖いし、生理的に好まない。崇拝者が「サリンを撒け」と言ったら、ホントに撒いちゃう人間がいるわけだから。まぁこれは極端な例だし、実際は盲目的どころか緻密な計画の下に行われた犯行だが。いずれにしても「狂信者」にはなりたくない。
頭が柔らかいうちに色々考えて行かなければ…と思う。ってもう手遅れか?(笑)
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