◆ 2002.12.20 Fri
憧れの人
誰しもいわゆる「憧れの異性」というのがいただろう。
思い返せば、僕にも高校時代憧れの人がいた。その女性は若くして国際コンクールの高校の部で入選するなど高校オーケストラ界でもカリスマ的な存在で容姿も可愛い、音楽的にも人間的にも尊敬できる正に非の打ち所のない女性だった。
「楽器の上手い人間」に惹かれるのは、楽器弾きの宿命だといってしまえばそれまでだが。始めに湧き上がった感情は「恋心」ではなく、純粋な「憧れ」だった。もちろん時間と共に、恋愛感情も芽生えていったが、それとは別のところにずっと「憧れ」を持ち続けていたように思う。
かくいう自分もオーケストラで何かと目立つ立場におかれた人間だったので、ごく控えめに言って高校オケという狭い世界では少しだけ有名だった。実際にお互いのことを知ったのも、「他人からの噂」がきっかけだった。そして二人はごく自然に惹かれあい、やがて付き合うことになる。
今考えると、お互いの表面的な「ブランド・イメージ」のようなものに惹かれあっていたんじゃないかと思う。後から話してみるとお互いに「憧れていた」ということがわかったし、実際、付き合い始めた時に周りから「この二人はいつか結ばれると思ってた」というようなことをよく言われた。結局そういう「雰囲気」に流されるまま付き合いだしたという部分は大きかったのかもしれない。
付き合い始めた頃は本当に幸せで、この人と一生過ごして行きたいと思っていたが。次第に妙な「違和感」が僕を襲うようになっていくことになる。憧れていた部分は虚構などではなく、確かにそこにある。でも、その違和感はいつまでたっても消えなかった。そして、結局最後は紆余曲折の末に別れることになった。
「憧れ」というものは、よく考えてみると怖いものだなと思う。人が誰かに憧れを抱く時に思い描く人物像は、どんどん美化されていき実際の人物を凌駕してしまうことが多いからだ。そこに生まれる「ギャップ」がもしかすると僕の感じた「違和感」を生んでいた原因なのかもしれない。
憧れるのは自由だが、相手に対して過剰に何かを期待したり、この人は「こうあって欲しい(こうあるはずだ)」というような強いステレオタイプを持ってしまうと、相手を苦しめてしまうことがあるということを忘れてはいけない。結果的にはそれが相手ばかりか、自分の首まで絞めることなっていくだろう。
結局は「相手自身」をよく見つめて、現実世界で形のあるコミュニケーションを重ねていくことが大切なんだと思う。憧れが生む「幻想」は、恋を育てることはできるが、愛を育てることは難しい。
思い返せば、僕にも高校時代憧れの人がいた。その女性は若くして国際コンクールの高校の部で入選するなど高校オーケストラ界でもカリスマ的な存在で容姿も可愛い、音楽的にも人間的にも尊敬できる正に非の打ち所のない女性だった。
「楽器の上手い人間」に惹かれるのは、楽器弾きの宿命だといってしまえばそれまでだが。始めに湧き上がった感情は「恋心」ではなく、純粋な「憧れ」だった。もちろん時間と共に、恋愛感情も芽生えていったが、それとは別のところにずっと「憧れ」を持ち続けていたように思う。
かくいう自分もオーケストラで何かと目立つ立場におかれた人間だったので、ごく控えめに言って高校オケという狭い世界では少しだけ有名だった。実際にお互いのことを知ったのも、「他人からの噂」がきっかけだった。そして二人はごく自然に惹かれあい、やがて付き合うことになる。
今考えると、お互いの表面的な「ブランド・イメージ」のようなものに惹かれあっていたんじゃないかと思う。後から話してみるとお互いに「憧れていた」ということがわかったし、実際、付き合い始めた時に周りから「この二人はいつか結ばれると思ってた」というようなことをよく言われた。結局そういう「雰囲気」に流されるまま付き合いだしたという部分は大きかったのかもしれない。
付き合い始めた頃は本当に幸せで、この人と一生過ごして行きたいと思っていたが。次第に妙な「違和感」が僕を襲うようになっていくことになる。憧れていた部分は虚構などではなく、確かにそこにある。でも、その違和感はいつまでたっても消えなかった。そして、結局最後は紆余曲折の末に別れることになった。
「憧れ」というものは、よく考えてみると怖いものだなと思う。人が誰かに憧れを抱く時に思い描く人物像は、どんどん美化されていき実際の人物を凌駕してしまうことが多いからだ。そこに生まれる「ギャップ」がもしかすると僕の感じた「違和感」を生んでいた原因なのかもしれない。
憧れるのは自由だが、相手に対して過剰に何かを期待したり、この人は「こうあって欲しい(こうあるはずだ)」というような強いステレオタイプを持ってしまうと、相手を苦しめてしまうことがあるということを忘れてはいけない。結果的にはそれが相手ばかりか、自分の首まで絞めることなっていくだろう。
結局は「相手自身」をよく見つめて、現実世界で形のあるコミュニケーションを重ねていくことが大切なんだと思う。憧れが生む「幻想」は、恋を育てることはできるが、愛を育てることは難しい。
◆ 2002.12.15 Sun
真のクラシック好き?
真のクラシック好きは、曲よりも演奏者や指揮者を好みます。例えばアノ作曲者が好きや嫌いありますがそんなとこに拘る人は、まだまだ青二才ですよ。
青二才といわれちゃったぜ、ひゃっほう!
クラシック好きの「真」だの「偽」だのというのは「若い(青い)な」と思う。僕もひと昔前までそんな事言っていた、「〜な人は、真のクラシック好きとはいえない!」みたいな感じで。懐かしい。
確かにどんどん曲を聴いていくと、曲自体よりも演奏者や指揮者などにこだわっていくようになるというのは凄くわかる。僕自身その1人だ。しかし、自分は今そこに一抹の危機感を覚えている。
例えばマーラーの第1交響曲を聴いている時を考えてみよう。クラシックを良く知っている方で、無意識に他のマラ1の演奏(自分の愛聴盤)と比較しながら聴いてしまっている人はいないだろうか。
音楽を「聴いている」のではなく「チェックしてる」だけになってしまってる人は実際多いわけで。つまり「作品」そのものを「感じる(聴く)」ことが
できなくなっているといえるわけだ。
ある意味でこれほど哀れなクラシックファンはいないと思う。その豊かなバック・グラウンドを生かして非常に多角的な聴き方ができる方もいますけど、残念ながらそういう人は稀有である。
ところで「作曲者の好き嫌いに拘る人」は青二才だろうか?
「作曲者の好き嫌いに拘る人≠演奏者や指揮者に拘る人」という事はないわけで、実際は好きな作曲家の曲ほど演奏者や指揮者にはうるさくなることが多い。実例を挙げるまでも無くそれはお分かりいただけるだろう。
ちょっとしたパラドクスだが、「作曲者の好き嫌いに拘る人」の方が「演奏者や指揮者に拘る人」よりも、カテゴリが限定されている分ディープだったりするわけだ。特定の演奏家に入れ込むタイプの人と、カテゴリという点ではそれほど差異がない。
この方は指揮か作曲などをやった経験はあるだろうか?
指揮とか作曲なんかをやっていると「曲の好み」や「作曲者の好み」はおのずと出てくるものだ。僕の知る限り、歴史に名を残す音楽家は皆「曲の好み」や「作曲者の好み」に拘っている。
なるほどムラヴィンスキーがフランス物を取り上げなかったし、ヴァントがマーラーを振らないわけである。まぁ演奏家と聴衆の立場は違うといえばそれまでだが。
青二才同士、お互い頑張りましょう。
◆ 2002.12.12 Thu
溺れたい溺れたくない
以前に書いた記事の中の「溺れる」という言葉で思い出した。
人を「好き」なる事ってある意味ではとても危険なことだと思う。相手を「好き」になり過ぎちゃうとその中での味覚が麻痺し、善し悪しが解らなくなって行く時があるから。うーん、人じゃわかりにくいから文学で考えてみる。
例えば「村上春樹が好き!」が好きな人間の中には、「村上春樹の作品なら何でも好き」と思い込んでしまい、その中での良し悪しがわからなくなっている人が沢山いるわけだ。
僕も村上春樹の文章は好きだけど、彼だってたくさんの駄作を書いていると思う。どんなに1つのもの(1人の人)を好きになっても、盲目的にはならず「味覚」はいつまでもちゃんと持っていたいものだ。
でも人には何かに「溺れてみたい」という願望もあると思う。
耽溺への甘美な誘惑はそこらじゅうに転がっている、その誘惑からかたくなに目をそむけ続けるほど人間は強い生き物ではない。人間はおそらく世界一複雑で矛盾した生き物だと思う。そう、僕は矛盾男。
溺れたい!溺れたくない!嗚呼…理性と本能の狭間に悩める人間の美しさよ!
人を「好き」なる事ってある意味ではとても危険なことだと思う。相手を「好き」になり過ぎちゃうとその中での味覚が麻痺し、善し悪しが解らなくなって行く時があるから。うーん、人じゃわかりにくいから文学で考えてみる。
例えば「村上春樹が好き!」が好きな人間の中には、「村上春樹の作品なら何でも好き」と思い込んでしまい、その中での良し悪しがわからなくなっている人が沢山いるわけだ。
僕も村上春樹の文章は好きだけど、彼だってたくさんの駄作を書いていると思う。どんなに1つのもの(1人の人)を好きになっても、盲目的にはならず「味覚」はいつまでもちゃんと持っていたいものだ。
でも人には何かに「溺れてみたい」という願望もあると思う。
耽溺への甘美な誘惑はそこらじゅうに転がっている、その誘惑からかたくなに目をそむけ続けるほど人間は強い生き物ではない。人間はおそらく世界一複雑で矛盾した生き物だと思う。そう、僕は矛盾男。
溺れたい!溺れたくない!嗚呼…理性と本能の狭間に悩める人間の美しさよ!
◆ 2002.12.12 Thu
理解ではなく認知する
ときどき「女心」がわからくなる時がある。
そんな風に書き出してみたが、じゃあ「男心」はわかるのかというとそうでもなかったりする。「自分の心」を正しく理解しているかと言われれば、それさえもよくわからないのだ。
要するに僕が理解に苦しんでいるものはシンプルに言ってしまえば「心」なんだと思う。「心」は多種多様なものだし、全く同じモノは一つとして存在しない。でも、確かに「女心」が「男心」よりわかりにくいという傾向はあるんじゃなかと思う、男ってわかりやすい生き物だから。
でも、そう感じるのは単に僕が男だからかもしれないし、そう書いている自分自身もイマイチ納得がいかない。そもそも「男性」だの「女性」だのという括りは一般化して語るにはあまりにもカテゴリが広すぎたのだ。
「心」に対峙する時は軸を持たずに柔軟なスタンスで「感じる」のが望ましいと思う。経験上、自分の「心」を開く事で相手の「心」を開くのが一番上手く行きやすい。
もちろん全てが納得の行くものである筈はない。無理に全てを「理解」しようとする必要も「淘汰」する必要もないと思う、それらを「認知」すればそれで良いのではないだろうか。
その相手が「愛する人」ならば尚更だ。全てを感じて(認知して)包み込めば良い、大切なのは結局「思いやり」なんだと思う。
そして人間は皆「弱さ」を持っている、密かに確かに。それを無理に探そうとしたり、克服させようとする必要は無いと思う。人間はそういう生き物だと「認知」したうえで、思いやりを持って接することが大切だと思う。
もし「弱さ」をその人の中にこっそり見つけたら、こっそり支えてあげればいいんだと思う。常に持つべきものは相手に向ける「思いやり」。思いやりといっても少しで良い、溺れるほどじゃ続かないから「少し」だけで良い。空しい理想論だと思う方がいると思うが、実際やってみるとそうでもないと解る筈だ。
何故なら「理解」することより「認知」することの方が、ずっと楽でいちいち悩んだりすることもないからだ。もちろんそれが行き過ぎると、「心が広過ぎる→図太い」のように他人から見られるようになるから怖さもあるけど。
結局は「やり方」の問題だと思う。
そんな風に書き出してみたが、じゃあ「男心」はわかるのかというとそうでもなかったりする。「自分の心」を正しく理解しているかと言われれば、それさえもよくわからないのだ。
要するに僕が理解に苦しんでいるものはシンプルに言ってしまえば「心」なんだと思う。「心」は多種多様なものだし、全く同じモノは一つとして存在しない。でも、確かに「女心」が「男心」よりわかりにくいという傾向はあるんじゃなかと思う、男ってわかりやすい生き物だから。
でも、そう感じるのは単に僕が男だからかもしれないし、そう書いている自分自身もイマイチ納得がいかない。そもそも「男性」だの「女性」だのという括りは一般化して語るにはあまりにもカテゴリが広すぎたのだ。
「心」に対峙する時は軸を持たずに柔軟なスタンスで「感じる」のが望ましいと思う。経験上、自分の「心」を開く事で相手の「心」を開くのが一番上手く行きやすい。
もちろん全てが納得の行くものである筈はない。無理に全てを「理解」しようとする必要も「淘汰」する必要もないと思う、それらを「認知」すればそれで良いのではないだろうか。
その相手が「愛する人」ならば尚更だ。全てを感じて(認知して)包み込めば良い、大切なのは結局「思いやり」なんだと思う。
そして人間は皆「弱さ」を持っている、密かに確かに。それを無理に探そうとしたり、克服させようとする必要は無いと思う。人間はそういう生き物だと「認知」したうえで、思いやりを持って接することが大切だと思う。
もし「弱さ」をその人の中にこっそり見つけたら、こっそり支えてあげればいいんだと思う。常に持つべきものは相手に向ける「思いやり」。思いやりといっても少しで良い、溺れるほどじゃ続かないから「少し」だけで良い。空しい理想論だと思う方がいると思うが、実際やってみるとそうでもないと解る筈だ。
何故なら「理解」することより「認知」することの方が、ずっと楽でいちいち悩んだりすることもないからだ。もちろんそれが行き過ぎると、「心が広過ぎる→図太い」のように他人から見られるようになるから怖さもあるけど。
結局は「やり方」の問題だと思う。
◆ 2002.12.11 Wed
「いい人」の苦悩
僕は、いわゆる「いい人」で終わってしまう人だった。
元カノにまで「いい人演じようとし過ぎてタダの友達で終わるタイプ。」といわれてたほど。友達で終わってない人間に言われるってどうなんだろうか…うはは。
でも、そういう人って結構いるんじゃないかと思う。
人の為なら一生懸命動ける気質が裏目に出て「自分の為」だけに動くことに凄く抵抗があって、そういった「私欲」をすごく嫌う所があるというか。だから自分の気持ちよりも相手の気持ちを優先してしまうことが多くて、特に恋愛においては相手を気にするあまり気持ちを伝えられない。
もどかしい。でも本当に愛しているならば、相手を愛している「自分」のために動くべき時が来ているのかもしれない、と考えなければ。その行動がもし形を結んだら後は「愛する人」のために動けるわけだし、相手の気持ちを優先する人間にとって、それは十八番だろう。(笑)
失ってからその大切さに気付くよりは、今目の前にある存在の大切さを感じしっかりと「自分」を伝えた方が(それが上手く行こうが行くまいが)後悔しない。というのが今のところの結論です。
元カノにまで「いい人演じようとし過ぎてタダの友達で終わるタイプ。」といわれてたほど。友達で終わってない人間に言われるってどうなんだろうか…うはは。
でも、そういう人って結構いるんじゃないかと思う。
人の為なら一生懸命動ける気質が裏目に出て「自分の為」だけに動くことに凄く抵抗があって、そういった「私欲」をすごく嫌う所があるというか。だから自分の気持ちよりも相手の気持ちを優先してしまうことが多くて、特に恋愛においては相手を気にするあまり気持ちを伝えられない。
もどかしい。でも本当に愛しているならば、相手を愛している「自分」のために動くべき時が来ているのかもしれない、と考えなければ。その行動がもし形を結んだら後は「愛する人」のために動けるわけだし、相手の気持ちを優先する人間にとって、それは十八番だろう。(笑)
失ってからその大切さに気付くよりは、今目の前にある存在の大切さを感じしっかりと「自分」を伝えた方が(それが上手く行こうが行くまいが)後悔しない。というのが今のところの結論です。
◆ 2002.12.06 Fri
肉体と哲学の相性
1つの恋が終わってまた新しい恋が始まる。
「恋」という単語を「人生」に置き換えても良い。「生きること」は「愛すること」じゃないだろうか。「容姿」ばかり気にして「中身」が無い女性は多い。 僕は「容姿」は多少気にするけど、それ以上に「中身」に惹かれるかれる人間だ。
フランスの作家兼ミュージシャン、イブ・シモンは「肉体と哲学の両方が合わないと恋愛は成り立たない…」って言葉を残しています、解り易い部分で愛し合うのは簡単だけど真実じゃない、恋愛は猿の交わりとは違う。
記憶が定かじゃないんだけどイブは確かこう続けてる
冷めた人間に言わせれば理想論かもしれない、でも限りなく現実的な理想だと僕は思う。僕もいろんな恋愛とその数だけの失恋を経験してきたけど、結局今はそういう人間でありたいと思いながら生きてます、失敗を繰り返した人間なりに。
急がないで行こうと思う、今日も魅力的な男を目指しながら「自分らしく」生きていきたい。実らない恋はいつまで経っても実らない、実る恋はいつでも実る。世の中をこっそり支配してる偶然性…或いは運命。それが在るか無いかを確かめるだけ。
疲れない恋です、もうガキみたいな恋愛はしたくない。恋愛はもっと精神的な営みだったはず…世の中、スポーツみたいな恋愛が多過ぎやしないかと思う。と言いながら一方で「不安」な自分に思いっきり気付いた。
矛盾の中で今日も僕は生きてく。ああ、生きて行くさ。
「恋」という単語を「人生」に置き換えても良い。「生きること」は「愛すること」じゃないだろうか。「容姿」ばかり気にして「中身」が無い女性は多い。 僕は「容姿」は多少気にするけど、それ以上に「中身」に惹かれるかれる人間だ。
フランスの作家兼ミュージシャン、イブ・シモンは「肉体と哲学の両方が合わないと恋愛は成り立たない…」って言葉を残しています、解り易い部分で愛し合うのは簡単だけど真実じゃない、恋愛は猿の交わりとは違う。
記憶が定かじゃないんだけどイブは確かこう続けてる
お互いに魅力を保っていくことは重要だ、体とか性的なものだけでなく、 思想とか哲学とか、そういうものも魅力的であるようにお互いに努力しなければならない。
冷めた人間に言わせれば理想論かもしれない、でも限りなく現実的な理想だと僕は思う。僕もいろんな恋愛とその数だけの失恋を経験してきたけど、結局今はそういう人間でありたいと思いながら生きてます、失敗を繰り返した人間なりに。
急がないで行こうと思う、今日も魅力的な男を目指しながら「自分らしく」生きていきたい。実らない恋はいつまで経っても実らない、実る恋はいつでも実る。世の中をこっそり支配してる偶然性…或いは運命。それが在るか無いかを確かめるだけ。
疲れない恋です、もうガキみたいな恋愛はしたくない。恋愛はもっと精神的な営みだったはず…世の中、スポーツみたいな恋愛が多過ぎやしないかと思う。と言いながら一方で「不安」な自分に思いっきり気付いた。
矛盾の中で今日も僕は生きてく。ああ、生きて行くさ。
◆ 2002.12.06 Fri
音の記憶
「音」といって思い出すのは、認知記憶を超越した音の記憶。
人間の記憶って早くても大体3〜4歳ぐらいだという。(だから催眠法で過去の記憶を掘り下げていくと、認知記憶の範囲までしか正確な情報が得られないらしい)でも「音の記憶」はもっと根が深いらしく母体の中で聴いた音楽でさえ子供が強く反応したりするんだよね。
僕の場合はYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)、高校に初めて聴いた時、なんか変なトランス状態(頭がボーっとして、体の底から何かがじわじわと湧き上がってくる感じ)になった。不思議な体験。
そして直感的に「この音楽は初めてじゃない」と思った。
これは後からわかった事なんだけど、僕の父さんはYMOが好きだったらしく生前から聴かされてたらしい。その他にも僕はクラシックも聴かされていたものだから、新世界の2楽章なんかも同じトランス状態になった。
そのメカニズムはよくわからないけど、こういう現象が起きた時の脳波の状態がどんなものか非常に興味がある。
人間の記憶って早くても大体3〜4歳ぐらいだという。(だから催眠法で過去の記憶を掘り下げていくと、認知記憶の範囲までしか正確な情報が得られないらしい)でも「音の記憶」はもっと根が深いらしく母体の中で聴いた音楽でさえ子供が強く反応したりするんだよね。
僕の場合はYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)、高校に初めて聴いた時、なんか変なトランス状態(頭がボーっとして、体の底から何かがじわじわと湧き上がってくる感じ)になった。不思議な体験。
そして直感的に「この音楽は初めてじゃない」と思った。
これは後からわかった事なんだけど、僕の父さんはYMOが好きだったらしく生前から聴かされてたらしい。その他にも僕はクラシックも聴かされていたものだから、新世界の2楽章なんかも同じトランス状態になった。
そのメカニズムはよくわからないけど、こういう現象が起きた時の脳波の状態がどんなものか非常に興味がある。
◆ 2002.12.01 Sun
喪失を恐れずに
「恋」に恋するのではなく「存在」そのものを愛する事。
それって本当に素晴らしいと思う。「あの人がいつも傍にいてくれたら良いな…」という気持ち、それが「愛」の限りなくシンプルな形の一つではないだろうか。それが「いつも」ではなく「いつまでも」だったらどんなに素晴らしいだろう。
僕はそういうものをずっと探している。
でもそこに必ず付き纏うのが「喪失」への恐怖だ。告白することで彼女を見ることさえもできなくなるんじゃないかという恐怖がある。それは僕がいつも言っている「喪失」のニュアンスと肉薄したものといっていい。それに耐えられず、見ていられるだけで幸せなので気持ちを伝えなくてもいいんじゃないか?と思ってしまうことがある。
僕自身「別れる」という概念が生まれてしまうのが怖くて、躊躇うことがよくあった。しかし、「見ていられる」という時間自体既に期限付きのものであって、本当の幸せがそこにはなかった。
僕は喪失するたびに落ち込んでしばらく「自分の世界」に閉じこもる。その中で「終わり」は「始まり」でもあることに気付いていく、そして新しい恋をしようという決心が生まれる。
自分が中々できないことを他人に言うのはどうかと思うが、あえて言いたいと思う。「喪失」を恐れずに頑張れ。
それって本当に素晴らしいと思う。「あの人がいつも傍にいてくれたら良いな…」という気持ち、それが「愛」の限りなくシンプルな形の一つではないだろうか。それが「いつも」ではなく「いつまでも」だったらどんなに素晴らしいだろう。
僕はそういうものをずっと探している。
でもそこに必ず付き纏うのが「喪失」への恐怖だ。告白することで彼女を見ることさえもできなくなるんじゃないかという恐怖がある。それは僕がいつも言っている「喪失」のニュアンスと肉薄したものといっていい。それに耐えられず、見ていられるだけで幸せなので気持ちを伝えなくてもいいんじゃないか?と思ってしまうことがある。
僕自身「別れる」という概念が生まれてしまうのが怖くて、躊躇うことがよくあった。しかし、「見ていられる」という時間自体既に期限付きのものであって、本当の幸せがそこにはなかった。
僕は喪失するたびに落ち込んでしばらく「自分の世界」に閉じこもる。その中で「終わり」は「始まり」でもあることに気付いていく、そして新しい恋をしようという決心が生まれる。
自分が中々できないことを他人に言うのはどうかと思うが、あえて言いたいと思う。「喪失」を恐れずに頑張れ。
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