◆ 2003.01.22 Wed
「無知の知」という勘違い
「無知の知」という言葉を勘違いしている人が最近異常に多い気がする、「知らないもん勝ちだよ、文句あるかぁ!」と開き直る時にこの言葉を出してくる頭の悪い若者は実際多いわけで。
「私は知らないことを知っている」というソクラテスの言葉の奥にある本質は、「真の知に至る出発点は己の無知を自覚することにある」ってことであって「何も知らないままで良い」ということではない。
ソクラテスは実際博識な男だったし、自分に属するものに関しては「無知」とは程遠くむしろ天才的だった、当然弟子も多い。「無知の知」の「無知」というのを現代に適用するならば、「私は何も知らない人間だ」という「謙虚な姿勢」であって、「知識」以前の問題じゃないかと僕は思う。
「無知」を自覚していないと学ぶ努力をしないまま誰かを傷つけてしまう時があると思う、偏見や差別はそこから生まれているといっても過言ではない。
「わたしはどーせ無知だよ!」
と開き直って博識な連中へのジェラシーをただ噛み殺すだけじゃなくて、その謙虚さを持ちながら貪欲に「人生」を学んで行くべきだと僕は思う。若いうちは「自分はなんにもわかってない未熟者」だってことを重々承知しながら、「謙虚」に行った方が自分のためになるのではないだろうか。
「私は知らないことを知っている」というソクラテスの言葉の奥にある本質は、「真の知に至る出発点は己の無知を自覚することにある」ってことであって「何も知らないままで良い」ということではない。
ソクラテスは実際博識な男だったし、自分に属するものに関しては「無知」とは程遠くむしろ天才的だった、当然弟子も多い。「無知の知」の「無知」というのを現代に適用するならば、「私は何も知らない人間だ」という「謙虚な姿勢」であって、「知識」以前の問題じゃないかと僕は思う。
「無知」を自覚していないと学ぶ努力をしないまま誰かを傷つけてしまう時があると思う、偏見や差別はそこから生まれているといっても過言ではない。
「わたしはどーせ無知だよ!」
と開き直って博識な連中へのジェラシーをただ噛み殺すだけじゃなくて、その謙虚さを持ちながら貪欲に「人生」を学んで行くべきだと僕は思う。若いうちは「自分はなんにもわかってない未熟者」だってことを重々承知しながら、「謙虚」に行った方が自分のためになるのではないだろうか。
◆ 2003.01.19 Sun
夢は芸術か?
「夢は芸術だろうか?」という面白い話題になった。
人間は常に感覚器を働かせて色んなものを「知覚」して新情報を獲得しながら生きているが、「夢」を見ている時というのは限りなく「脳」だけが働いている状態なのだろう。「想像」によってのみ作られた世界。
もちろんそれは既知情報をマテリアルにして、それらを紡ぐ事によって作られた世界なのだが。考えてみると、芸術というものの多くはそもそもイメージから生まれるのだから、イメージによって作られた世界は芸術といって良いのかもしれない。それを「現実」の世界に持って来れたら面白いのだが、残念なことに殆どは忘れてしまうのだ。
サマセット・モームはこんな印象的な言葉を残している。
芸術は意図しない時に偶発的に生まれてくることがるし、そういったモノの方が素晴らしかったりすることは多い。でも音楽においては例外もある、一時期指揮者になろうと思って音大を目指し、作曲も勉強してたのでよくわかるが。メロディ以外のオーケストレーションは、タレントじゃなくてスキルの部分が意外と大きかったりするからだ。即興演奏にいたっては、結局「慣れ」という部分が大きい。
でもそんな世界だからこそ並外れた「ギフト」をもった人間しか世には出て行けないのだろう、僕はそうやって「淘汰される」のが怖くて音楽の道をあきらめた。…最後に話がそれてしまった。
人間は常に感覚器を働かせて色んなものを「知覚」して新情報を獲得しながら生きているが、「夢」を見ている時というのは限りなく「脳」だけが働いている状態なのだろう。「想像」によってのみ作られた世界。
もちろんそれは既知情報をマテリアルにして、それらを紡ぐ事によって作られた世界なのだが。考えてみると、芸術というものの多くはそもそもイメージから生まれるのだから、イメージによって作られた世界は芸術といって良いのかもしれない。それを「現実」の世界に持って来れたら面白いのだが、残念なことに殆どは忘れてしまうのだ。
サマセット・モームはこんな印象的な言葉を残している。
どうやら美というモノも、幸福や発明と同様に、
計画的に追求されない時の方が獲得しやすいようだ。
芸術は意図しない時に偶発的に生まれてくることがるし、そういったモノの方が素晴らしかったりすることは多い。でも音楽においては例外もある、一時期指揮者になろうと思って音大を目指し、作曲も勉強してたのでよくわかるが。メロディ以外のオーケストレーションは、タレントじゃなくてスキルの部分が意外と大きかったりするからだ。即興演奏にいたっては、結局「慣れ」という部分が大きい。
でもそんな世界だからこそ並外れた「ギフト」をもった人間しか世には出て行けないのだろう、僕はそうやって「淘汰される」のが怖くて音楽の道をあきらめた。…最後に話がそれてしまった。
◆ 2003.01.17 Fri
「名前」の持つ意味
名前の持つ役割には、個人を認識するだけでなく「家柄」(つまり先祖以来の一族の社会的な地位から見た格式)を表すという一面もある。
とはいっても、現代の日本はあまり「家柄」が重要視されない国なので、名前に社会的な地位を現すような役割も今となっては殆ど無い。しかし日本に比べて「家柄」を未だに重要視する国は多く、例えばイギリスは名前見ただけで労働者階級の…とかがある程度わかるらしい。なんか怖い。
僕は小さい頃「名前」で悩んだ人間だった、珍しい名前だったからクラスの人からバカにされることが多かった。でもいつからか吹っ切れて自分を徹底的に露出して磨こうと自分なりに試行錯誤した覚えがある、そうしたらいつの間にか「名前」がコンプレックスから強烈なアイデンティティに変わっていった気がした。
逆にいうと、僕はこの名前を付けられなかったら(言い換えれば名前が珍しくなかったら)そういう状況に追い込まれることもなく、今の「自分」にはなれなかった。そう考えると、「個人の表象」に過ぎないように思われていた「名前」というのもが、実はその人の人生を左右するような重要な要素にであるような気さえしてくる。でもそれは僕の個人的な体験に基ずく結果論であって、一般的とは到底いえない。なにかが違う。
「人間」を「ワイン」にでも例えて考えてみよう、その場合「名前」は「ラベル」といって良いと思う。私達は「ラベル」によって存在をカテゴライズし認識している。でも実際にワインの価値を決めるのは味、香り…つまり「ラベル」ではなく「中身」である。つまり「中身」が「名前(=ラベル)」の価値を決めるということになる。
そう考えると名前自体の価値と真剣に睨めっこするのは、いかにも「自分を考えている」という感じがするけれども、実際は限りなく無意味なものなのかもしれない。そもそも名前と自分を関係付ける意識は、どこまでも「恣意的」なものであってそれそのものに本質は無い、とすると大事なのは「周り」ということになるだろうか。
今、自分の「周り」にいる存在(友達、同僚等々…ただし親は尺度になりにくい気がする)は、自分をどう見て、どう評価しているか。だから「名前と私が一致した」というセリフは、他人からの客体の積み重ねによって「自分」をしっかりさせた人間だけが言える恣意的な(あくまで恣意的な)言葉なんだと思う。まぁ日本は名前が階級を表したりはしないし、名前そのものの価値を測りえる尺度が無い以上一致もクソもないわけだが。
なんだかまとまりの無い文章になってしまったので終わる。
とはいっても、現代の日本はあまり「家柄」が重要視されない国なので、名前に社会的な地位を現すような役割も今となっては殆ど無い。しかし日本に比べて「家柄」を未だに重要視する国は多く、例えばイギリスは名前見ただけで労働者階級の…とかがある程度わかるらしい。なんか怖い。
僕は小さい頃「名前」で悩んだ人間だった、珍しい名前だったからクラスの人からバカにされることが多かった。でもいつからか吹っ切れて自分を徹底的に露出して磨こうと自分なりに試行錯誤した覚えがある、そうしたらいつの間にか「名前」がコンプレックスから強烈なアイデンティティに変わっていった気がした。
逆にいうと、僕はこの名前を付けられなかったら(言い換えれば名前が珍しくなかったら)そういう状況に追い込まれることもなく、今の「自分」にはなれなかった。そう考えると、「個人の表象」に過ぎないように思われていた「名前」というのもが、実はその人の人生を左右するような重要な要素にであるような気さえしてくる。でもそれは僕の個人的な体験に基ずく結果論であって、一般的とは到底いえない。なにかが違う。
「人間」を「ワイン」にでも例えて考えてみよう、その場合「名前」は「ラベル」といって良いと思う。私達は「ラベル」によって存在をカテゴライズし認識している。でも実際にワインの価値を決めるのは味、香り…つまり「ラベル」ではなく「中身」である。つまり「中身」が「名前(=ラベル)」の価値を決めるということになる。
そう考えると名前自体の価値と真剣に睨めっこするのは、いかにも「自分を考えている」という感じがするけれども、実際は限りなく無意味なものなのかもしれない。そもそも名前と自分を関係付ける意識は、どこまでも「恣意的」なものであってそれそのものに本質は無い、とすると大事なのは「周り」ということになるだろうか。
今、自分の「周り」にいる存在(友達、同僚等々…ただし親は尺度になりにくい気がする)は、自分をどう見て、どう評価しているか。だから「名前と私が一致した」というセリフは、他人からの客体の積み重ねによって「自分」をしっかりさせた人間だけが言える恣意的な(あくまで恣意的な)言葉なんだと思う。まぁ日本は名前が階級を表したりはしないし、名前そのものの価値を測りえる尺度が無い以上一致もクソもないわけだが。
なんだかまとまりの無い文章になってしまったので終わる。
◆ 2003.01.08 Wed
軸を持たないとはどういうことか
昨日の記事で僕は「意識的に軸を持たないようにしてる」と書いた。
しかし、色々やれば良いってものではない、やる前に色々考える事が重要。「何でもやりたい!」じゃなくて「自分は本当にそれをやるべきなのか」ってことを常に考えていかなければならないと僕は思う。
「自分がしっかりしてないと他人の事なんて思いやれないし、思いやろうとしても軽いものになっちゃう…」とは言うけれど、他人を思いやる気持ちを持ちつつ自分を形成していかないと危険だ。独りよがりで誰も相手にしてくれない「自分」になってしまっては意味が無い。
つまり色々な人の意見を聞いたり本を読んだりして色々な事を「吸収」するだけではなく、「自分」が集団の中でどう見られてるか、どういう存在になっているべきかをしっかり意識して、吟味しながら形成して行くことが重要だ。
もっと端的に言うと「空気を読め!」ってことになる。
だからまずは「自分」じゃなくて、「他者との関わりにおける自分」からだ。そのためには自分を第三者的に見る(或いは監視する?)センサーを常に意識しておくと良い。この方法を実践して「嫌な自分」を克服した人は結構多いんじゃないかと思う。
周りが見えるというのはそういうことだ。
しかし、色々やれば良いってものではない、やる前に色々考える事が重要。「何でもやりたい!」じゃなくて「自分は本当にそれをやるべきなのか」ってことを常に考えていかなければならないと僕は思う。
「自分がしっかりしてないと他人の事なんて思いやれないし、思いやろうとしても軽いものになっちゃう…」とは言うけれど、他人を思いやる気持ちを持ちつつ自分を形成していかないと危険だ。独りよがりで誰も相手にしてくれない「自分」になってしまっては意味が無い。
つまり色々な人の意見を聞いたり本を読んだりして色々な事を「吸収」するだけではなく、「自分」が集団の中でどう見られてるか、どういう存在になっているべきかをしっかり意識して、吟味しながら形成して行くことが重要だ。
もっと端的に言うと「空気を読め!」ってことになる。
だからまずは「自分」じゃなくて、「他者との関わりにおける自分」からだ。そのためには自分を第三者的に見る(或いは監視する?)センサーを常に意識しておくと良い。この方法を実践して「嫌な自分」を克服した人は結構多いんじゃないかと思う。
周りが見えるというのはそういうことだ。
◆ 2003.01.07 Tue
自分の「roots」とは何か
「自分のrootsって何ですか?rootsって何ですか?」
友人にそんな質問をされた、大学の課題で出たものらしい。「roots」というものは自分が信じればそれが自分の中の答えであって、共通の答えなんてもの導き出せないと思う。だからこれからここに書くことは「今の自分」の恣意的な意見になるだろう。質問のレベルが低いとは全然思わないが、扱うものが漠然とし過ぎていて学問的成果という点ではちょっとクエスチョンマークが付いてしまう。
一言に「roots」といっても、その中には色んなカテゴリがあり、意味も幾つか含まれてくると思う。「人の民族的・文化的・社会的な起源」、「土地などとの結びつき」、「精神的なふるさと」…という感じに。それだけにこれはなんとも答えにくい質問である。
おそらくその問いが求めている「roots」の最もシンプルな形は、「思想の根っこ」ということではないかと思う。(僕自信ははそれをよく「軸」という言葉に言い換えてるのだが)
この範疇に限定して言うなら僕は「roots」というものをそれほど重要視していない(或いは興味の持っていない)人間である。中心にあるものは何であれ、それが曖昧なものである事は確かなわけで、むしろ明瞭に変わっていくのはその周りを囲む「object」なわけだから。現実世界ではその個々の「object」に対して、どのように関わっていくかが最も重要だと考えている。
そこでの事実判断や価値判断を決めるのが「roots」だと主張する人は沢山いるだろう、しかしそこが「落とし穴」だと僕は思う。例えば「AとBどっちか?」という問いに対して、それぞれの事実判断&価値判断から「僕はA」と太郎が答え「私はB」と花子が答えたとする。これは僕に言わせればどちらもfalseである、A・B両方の本質をきちんと捕らえる前に選択をするという行為自体がfalseなのだ。
結局、質問自体の意味が無くなってしまうというわけだ、「取捨選択する段階ではない」が僕の答えである。
究極的にはAもBも「認知」しておけば良い。上手い喩えが見つからないのだが、「図書館的な人間」とでも言えば良いだろうか。図書館には偏り無く様々な(相相反する)思想の本がおいてあるだろう、そんな「頭」が理想だと僕は考えている。
僕の今は意識的に軸を持たないようにしている。思想を固めてしまうのにはまだ早い気がするし、今はとにかく色んな思想や哲学を学んで軸を作ってる段階といって良い。
僕が最近頻繁に唱えている、「理解ではなく認知する」といういわゆる「認知論」に行き着いてしまうわけだ。paradoxになるが、「軸を持たない」という思想自体が既に今の僕の「roots」といっても良いような気がする。
もちろん将来的にはしっかりした「軸」を持った柔軟な人間になりたい。「軸」が簡単に変わってしまうような人間にはなりたくないし、その周りを変えて行けないような人間にもなりたくない。
友人にそんな質問をされた、大学の課題で出たものらしい。「roots」というものは自分が信じればそれが自分の中の答えであって、共通の答えなんてもの導き出せないと思う。だからこれからここに書くことは「今の自分」の恣意的な意見になるだろう。質問のレベルが低いとは全然思わないが、扱うものが漠然とし過ぎていて学問的成果という点ではちょっとクエスチョンマークが付いてしまう。
一言に「roots」といっても、その中には色んなカテゴリがあり、意味も幾つか含まれてくると思う。「人の民族的・文化的・社会的な起源」、「土地などとの結びつき」、「精神的なふるさと」…という感じに。それだけにこれはなんとも答えにくい質問である。
おそらくその問いが求めている「roots」の最もシンプルな形は、「思想の根っこ」ということではないかと思う。(僕自信ははそれをよく「軸」という言葉に言い換えてるのだが)
この範疇に限定して言うなら僕は「roots」というものをそれほど重要視していない(或いは興味の持っていない)人間である。中心にあるものは何であれ、それが曖昧なものである事は確かなわけで、むしろ明瞭に変わっていくのはその周りを囲む「object」なわけだから。現実世界ではその個々の「object」に対して、どのように関わっていくかが最も重要だと考えている。
そこでの事実判断や価値判断を決めるのが「roots」だと主張する人は沢山いるだろう、しかしそこが「落とし穴」だと僕は思う。例えば「AとBどっちか?」という問いに対して、それぞれの事実判断&価値判断から「僕はA」と太郎が答え「私はB」と花子が答えたとする。これは僕に言わせればどちらもfalseである、A・B両方の本質をきちんと捕らえる前に選択をするという行為自体がfalseなのだ。
結局、質問自体の意味が無くなってしまうというわけだ、「取捨選択する段階ではない」が僕の答えである。
究極的にはAもBも「認知」しておけば良い。上手い喩えが見つからないのだが、「図書館的な人間」とでも言えば良いだろうか。図書館には偏り無く様々な(相相反する)思想の本がおいてあるだろう、そんな「頭」が理想だと僕は考えている。
僕の今は意識的に軸を持たないようにしている。思想を固めてしまうのにはまだ早い気がするし、今はとにかく色んな思想や哲学を学んで軸を作ってる段階といって良い。
僕が最近頻繁に唱えている、「理解ではなく認知する」といういわゆる「認知論」に行き着いてしまうわけだ。paradoxになるが、「軸を持たない」という思想自体が既に今の僕の「roots」といっても良いような気がする。
もちろん将来的にはしっかりした「軸」を持った柔軟な人間になりたい。「軸」が簡単に変わってしまうような人間にはなりたくないし、その周りを変えて行けないような人間にもなりたくない。
◆ 2003.01.06 Mon
自分を創る
自分を信じることって意外と難しい。
人を信じるためにも「自分を信じる」ことは必要だ。かけがえのない自分自身の存在を大切にする、そういう意味での「エゴイズム」は大事だと思う。他人の事を気にし過ぎて、自分を軽視してしまうのが人間だから。
答えがなかなか見つからないのも人間、でもこの世界に「答え」のあるモノなんて意外と少ないのではないかと思っている。「答え」を見つけようとするから苦しい、目の前に在るものを真っ直ぐに感じてそれを認識すれば、ただそれだけで良い。
僕が最近頻繁に言ってる「理解ではなく認知する」というやつだ。
人間である以上もちろん「後悔」はする。でも、「過去」は現在や未来の自分の足を引っ張ったりするモノであっては絶対にいけない。「過去」は「これからの自分」に生かして行くモノだと考えるべきだし、そうしていかなきゃならないと思う。
「何を求めてるのか、何が足りないのか」がわからなくて自分が嫌になった事が何度もあった。自分には正直でいようと思っても、自分の欲望に正直になるべきなのか、その欲望を抑制するものに正直になるべきなのかわからない。
でもその時の僕は悩みに悩んだ末にこんな結論を導いた。結局自分って見つけるものじゃなくて、創っていくものだと。生まれてから今までいろんな選択をしてきて、全部が全部後悔してないわけじゃない。でも、それが自分なんだ。そんな自分を認めよう。
そう思った瞬間体が軽くなった。「自分自身でありたい」という願いは果たせなそうだけど、少しづつがんばろうと思った。
これを「妥協」と言う人がいるかもしれないけど、 これは「自分であり続けるための妥協」であって「諦め」とは違うと思う。それで魅力的な男になろう…なんて思いながら生きているのです。ぐだぐだ。
人を信じるためにも「自分を信じる」ことは必要だ。かけがえのない自分自身の存在を大切にする、そういう意味での「エゴイズム」は大事だと思う。他人の事を気にし過ぎて、自分を軽視してしまうのが人間だから。
答えがなかなか見つからないのも人間、でもこの世界に「答え」のあるモノなんて意外と少ないのではないかと思っている。「答え」を見つけようとするから苦しい、目の前に在るものを真っ直ぐに感じてそれを認識すれば、ただそれだけで良い。
僕が最近頻繁に言ってる「理解ではなく認知する」というやつだ。
人間である以上もちろん「後悔」はする。でも、「過去」は現在や未来の自分の足を引っ張ったりするモノであっては絶対にいけない。「過去」は「これからの自分」に生かして行くモノだと考えるべきだし、そうしていかなきゃならないと思う。
「何を求めてるのか、何が足りないのか」がわからなくて自分が嫌になった事が何度もあった。自分には正直でいようと思っても、自分の欲望に正直になるべきなのか、その欲望を抑制するものに正直になるべきなのかわからない。
でもその時の僕は悩みに悩んだ末にこんな結論を導いた。結局自分って見つけるものじゃなくて、創っていくものだと。生まれてから今までいろんな選択をしてきて、全部が全部後悔してないわけじゃない。でも、それが自分なんだ。そんな自分を認めよう。
そう思った瞬間体が軽くなった。「自分自身でありたい」という願いは果たせなそうだけど、少しづつがんばろうと思った。
これを「妥協」と言う人がいるかもしれないけど、 これは「自分であり続けるための妥協」であって「諦め」とは違うと思う。それで魅力的な男になろう…なんて思いながら生きているのです。ぐだぐだ。
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