◆ 2003.10.07 Tue
福永武彦について
福永武彦(1918-1979)の「海市」(新潮文庫)を読んでいる。
彼はもともとは詩人で、彼の小説は詩的感覚に満ちている。僕が彼の作品を読むようになったのは高校時代のこと、「忘却の河」という作品をたまたま読んだのがきっかけ。生理的に好きな文体で、特に汚れきった河の描写には震えた。
それ以後「草の花」や「廃市」などを読みあさってたわけだ。この「海市」も最初から震えが走るくらい生きた描写の連続…ここにその中から夕暮れの描写のひとくだりを紹介しよう。
もう一つ自分の好きな部分を紹介しておきたい。
少しでも気になった方はぜひ書店で作品を手にとってみてほしい。
彼はもともとは詩人で、彼の小説は詩的感覚に満ちている。僕が彼の作品を読むようになったのは高校時代のこと、「忘却の河」という作品をたまたま読んだのがきっかけ。生理的に好きな文体で、特に汚れきった河の描写には震えた。
それ以後「草の花」や「廃市」などを読みあさってたわけだ。この「海市」も最初から震えが走るくらい生きた描写の連続…ここにその中から夕暮れの描写のひとくだりを紹介しよう。
夕日が近づいていた。
水平線の向うの西空が素早く変化していた。
一面に黄ばんだ雲の群が、明るい橙色の地肌と
隈取りした紫とに染め上げられた。
ちょうど水平線の上まで落ちかかった太陽が、
雲の合いだから血潮を滴らせ、
その血はくろずんで水平線にこびりついた。
もう一つ自分の好きな部分を紹介しておきたい。
私の時間と彼女の時間とは友に混ざり合って
最早長いとも短いとも判断することが出来なくなった。
一人でいる時に感じる孤独とは違い、
この共通の孤独は恍惚と魅惑と耽溺とに充ち満ちて、
お互いの欲望と充足とを鏡のように映し合った。
それは人が死にたくなる時に感じる誘惑にも似ていて、
その死の背後に甘美な永生が約束されているために、
孤独であることが寧ろ一つの特権であると思われるような、
そういう孤独を二人して重ね合せたものだった。
死がこのような記憶から全い忘却であり
現在の一瞬の幸福な持続であるならば、
その死を自ら選ぶことも許されるのではないか
と錯覚するほど死は生に似ていたし、生は死に似ていた。
人は愛することによって生を学び、
生を学ぶことによって死を学ぶだろう、
と私は意識の底でぼんやりと考えた。
少しでも気になった方はぜひ書店で作品を手にとってみてほしい。
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