◆ 2003.11.10 Mon

幻想に生きた十代

ふと振り返ってみればいつのまにか僕も二十代、もう「ティーン」というカテゴリに属していないのかと思うと時の流れを感じずにはいられない。あっという間だったような長かったような、正直よくわからない。

経験が「量感」よりも「質感」として残るモノだからなのかもしれない、「長さ」の感覚は無いけどその沢山の経験が自分の「体の一部」になっているという感覚はある。要するに時間的な「長さ」は関係ないのかもしれない、経験の「密度」には人によって結構な違いがあると思う。

僕の十代を振り返ってみると、本当に眩暈がするほど沢山の記憶が詰まっている。十代の殆どは空想妄想に生きてたという感じである、まるでアメリのように。

でも17歳の時に父を亡くしたのをきっかけに色々考えた、そこで人生が変わった気がした。なんというか自分にとって父の命日は、第二の誕生日みたいなものなんだと思う。空想妄想に溺れてた子供が、現実世界の大地に初めて二本の足をつけて急激に成熟した、或いは急激成熟しようとした日…そんな感じである。

冒頭で経験に時間的な「長さ」は関係ないって書いたけど、正にそれだった。本当に密度の濃い経験で、自分のそれまでの16年間分の経験よりもどっしりと「質感」のある経験だった。

あの時から全てが(良くも悪くも)変わった、大きな、大切な存在を失って心に大きな「穴」が空いてしまったけど、同時に自分の中に在る全ての価値観を再構築するきっかけになったのである。

前よりも少しだけ人に心から優しくしたり、思いっきり愛せるようになった気がする。人を「哀する」ことを知って人を「愛する」ことを知ったとでもいえば良いのだろうか。

あと概念的な意味での「視野」がそれまでよりもほんの少し広くなった気がする、色んなモノを先入観に囚われずまずは概観して、自分に無いものを積極的に感じようとするようになった。全て「気がする」なのだが、曖昧だけど確かに何かが変わったのである。

とはいっても今でも心の奥には「闇」があるし、根は暗い人間なのだが…。でも過去は未来の自分の体の一部として前向きに生かしていきたい、過去を想い悲しくなることがあっても前に歩き続けたい…と僕は思っている。だから17歳からの人生は全てが濃かった、刺激的な毎日を過ごしていた。

この文章に対してコメントをいただいた。

「愛」が関連した一連の事柄が随分と私を成長させた事があったのですが、(成長という表現が適当なのかは分からないのだけれど)taxiさんの文章を読んでいて、その事が少し重なりました。

人から見たら大した事ではないのかもしれないけれど、私にとっては、言葉に出来ないくらい大事な世界でそれが崩壊したのです。あらゆる思考や憶測が駆け巡って、 泣くし、怒るしで、それはそれは大変でした。

それから、環境がかわったりで、知らなかった世界を見たりして人間として在るべき日常生活をこなしたりしてるうちに、だんだんと非常に前向きな精神へと変わっていきました。(この時taxiさんの言う「価値観の再構築」が行われていた気がする)

そして、樹に巻き付く、つるのような植物ではなくて、自分で根っこをはって枝を広げて伸びてゆく一本の樹になるんだ!と思えたときに、破壊したと思っていた、大事なものが 目に見える形が無くなっても、まだ自分の中に生きている事に気付くことが出来たのです。

そういった感情や気付きの積み重ねが、心で発する音楽に現れるのは必至で、わたしの演奏を聴いいてくださった方に、あなたのチェロは本当に貴方の音がする、涙が出た、といって頂いた事がありまして、そういう時は本当に、よかったと思えるのです。

人生にはいわゆる「どん底」というものが必ずある、しかし、そこから底を蹴って再浮上した時に得る物は途轍もなく大きい。

それこそ僕がよく引用するジャン・パウルの「経験は良い薬であるが、病気が治ったあとでしか手に入らない」という言葉が示唆しているように、経験というのはそこを通過し初めて意味を持っていくのだと思う。

「自ら根をはり枝を広げて伸びてゆく一本の樹」、そうありたいものである。でも…そこで森(周り、全体)が見えていない木にはなりたくない、周りの支えや優しさに気付いてそれに感謝しながら生きて行きたいと思う。

自分にとって本当に「大事なもの」はたとえ意識の中にに無くとも、故意に壊したつもりでも自分の中に存在し続けるのだろう。人生の混沌の中にも、幾つかの「必然性」が潜んでる気がする、そう考えると混沌の中にも小さな「調和」が見えてくるようだ。


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