◆ 2004.01.19 Mon

極端な国 / スローライフ

アメリカに留学中の友人からこんなメッセージをいただいた。

アメリカで5ヶ月位生活して、毎日英語でアメリカ人と関わって色々話して・・・思った。「あたしアメリカ人無理だ・・・」 やっぱ価値観とか合わない人いるんですよね。

普通に世間話してる分には問題ないんだけども、ちょっと立ち入った話(友達との悩み相談とか)されると、なんかもう無理。下手に自信ありすぎるって言うのかな。自分に自信を持つことって大切だけど、それなりの根拠っていうか、それまでの努力っていうかそういうものがないと全く説得力がない。

アメリカって「中性」が存在しない・・・とは言わないけど、極端な国ですよね。fast foodとか肉とかばっか食って超太ってる人がいるかと思えば、ベジタリアンもいる。物とか食べ物とかをじゃんじゃん捨てて環境破壊してるかと思えば、環境保護とかのNGOやNPOが盛んだったりする。この両極端なのが良いとは言わないけど、もっと真ん中をとれないのかなと思う。fast foodが蔓延してて子供の栄養が偏るからって砂糖になんか栄養分入れたり。だったらfast food自体を見なおせよ!ってすっごく思います。

でも逆に、日本は「平均」だらけですよね。皆同じ。そうゆう風になるように教育されてきたんだけども、あたし達は。もっとこう「ちょうどイイ具合」ってのはないのかねーこの世界。

でもあたしも最近日本に目覚めてます。一昨年の12月から学科の教授や友達とボランティア団体(と一応名乗ってるけどNPO目指してます)を立ち上げてから。そしてアメリカに来てさらに(笑)食に関しても生活スタイルに関しても、日本の伝統的なものって(今のじゃないよ)スローで、「空間に余裕がある」と思うんですね。皆で生きてるって実感できる暮らしをしてたんじゃないかなーって。

「アメリカが極端な国」というのは大いに納得できる、僕もアメリカが好きになれない人間の一人である。高校時代、日本に留学してる子と仲良くなった時に随分と長く色々な話をしたものだが、その中でも僕はそれを実感した。中には基本姿勢をneutralistにおいて、柔軟に考える人もいるのだが。多くのアメリカ人は、多くの日本人がイメージするそれこそ「絵に描いたような」アメリカ人が多い。

日本人は「平均」だらけというような話をよく耳にするが、実際はどうなのだろうか。

確かに平均教育だとはいわれているが、はたしてそれが本当に「平均」を生み出しているだろうか。教育形態にその性質があるとしても、本当に「皆同じ」になっているだろうか。僕にはどうしてもそうは思えない。仮に「皆同じ」で日本が中立的な人間の塊だったら、社会はもう少し落ち着いてると思う。

むしろ現実は個々人を越えた層分化が少しずつ顕在化してきてる、ここでいう層とはいわゆる所得層である。それに伴って教育環境にも格差が出てきている。中流社会・平均教育といったものはもはや表面的なイメージに過ぎなくて、現実は個々人を越えた大きなカテゴリによって分けられているのではないだろうか。もちろん日本ではそういうものはイメージによって隠されてるので、多くの人は未だに「平均教育=日本の教育」だと思い込んでいるが。

かつてあった日本の伝統的な生活スタイルがスローだというのは事実なのかもしれない、しかし競争社会である現代でそれを唱えるのは結構勇気がいることだと思う。現代社会でスローを実践出来てる人には、どういう人がいるのだろう?

経済的に厳しい家は働き詰めでかなりタイトな時間を送ってる家が多い、逆に半端な高所得層は、稼げるけど稼いだ金を使う暇が無いくらい忙しいという現実。そう考えると、「本当に」スローな生活を実践できてる人は、少ないのではないかと思う。

そうはいっても、「でも私はスローライフ実践しています。」と言う人は多いと思う、実際「スローライフ・ブーム」みたいなのが一時期隆盛していたし。しかし、それは突き詰めると結局は感覚的な意味での「スロー」といっていい、確かに「ゆとり」の時間・精神は存在していても、そのゆとりを作るための「タイトな時間」がどこかに設定されていることが多い。

感覚的で一時的な「スロー」。そういうスローと区別して、僕は「本当に」という言葉を付けた。目下に競争社会がある現代では「本当のスロー」は難しいというべきだろう。しかし、一時的なものであってもスローな「感覚」は大事にしたいものである。
◆ 2004.01.16 Fri

夜の持つ力

ふと気付いたことだが、いわゆる「恋愛」の多くは夜に生まれ夜に育まれてるような気がする。自分も含めた周りの色んな「恋愛」を見ているとどうもそんな感じがしてならない、「夜」にはなにか特別な力があると思う。ここに友人の言葉を引用しよう。

夜はいいよ。ドリカムの曲になんだったか忘れたけど「会えない時間が愛を育てる」だか「気持ちを育てる」みたいのが書いてあって、僕もそう思う。

自分が会えないでいた間にどのくらい相手を思っていたかを会ったときに伝えたい。その「会えない時間」ってのがやっぱり家が違う以上は夜になるわけで。だからかなーとも思う。

でも、最近は電話やメールで24時間連絡可能だからある意味恐ろしいともいえるよね。しかし、それにしても夜って他者との接触が少ないから自分自身と向き合う時間が多くなって、それに伴って気持ちの中身がふいに出てきたりするんじゃないかな?そんなときに時間や思いを共有できる相手に惹かれるのは至極当然じゃないかな。

夜は一人で過ごすことが多いから、色々なことに考えや想いを巡らす時間になりやすいというのは一理ある。それにしても「会えない時間が愛を育てる」という言葉は的を得ているし素敵な表現だと思う。さらにもう一つ引用。

人を想うのは昼夜問わずだけれど、夜ってのはやっぱり特別ですね。

私の場合、曲を作ったり、詩(みたいなもの)が生まれるのはいつも深夜。。ああ、月が関係してるのかなあ。

なにしろ夜ってやつはロマンチックですね。そして切ない。

確かに自分も創作というか想像(創造)するのは夜だ。恋愛だけではなく、作曲をするにしても詩や小説を書くにしても。もし夜がなかったら人間はこんなロマンチックな生き物にはなれなかったんじゃないだろうか。
◆ 2004.01.12 Mon

千葉女オケに想う

千葉女オケ

千葉女子高校オーケストラ部の演奏を久しぶりに聴いた、若々しいエネルギーに満ち溢れていて良い演奏だった。

僕にとって千葉女オケは特別な存在である、恋愛面においても音楽面においても本当に色々あった、僕の高校時代を語る上でも欠かせないオーケストラといって良いと思う。目下の千葉女オケは純音楽的にみたら、自分が高校時代よりもレベルは落ちているかもしれない。しかし、それは人材面(指揮者、部員)の都合が大きく、彼女達が努力していないわけではない。

千葉女がベルリオーズの「ローマ謝肉祭」序曲と外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」を演奏した年があった、あの時は木管は黄金期で素晴らしい人材が揃っていた。ベルリオーズのイングリッシュホルンの長いソロも見事だったし、管弦楽のためのラプソディーのフルートのソロも素晴らしかった。この木管の二人は高校選抜オケにも入っていたのでとても仲が良かった、二人とも「自分の音楽」をきちんと持っていて、良い意味で「プライド」を持っていた。

そして、ここで出てきた「プライド」という言葉が重要なテーマである。

「全国一位の千葉女オケ」(今は1位ではないが)という肩書きが彼女達自身に与えていたプレッシャーは計り知れないものがある(それに関しては高校時代千葉女の子達自身から悩みを聞いていたのでよく知っている)、そんな中であれだけ手堅い演奏を聴かせられる彼女らは凄いと思う。しかし千葉女オケは他の高校オケの愚かな連中からよく「勘違い」をされてしまう、「プライドが高い」だの「自信過剰で偉そう」だのとよく中傷されるのである。

はっきり言っておこう、それは高校オケの頭の悪い連中の勝手な思い込みである。

そういう人間は千葉女がどれだけ練習し、努力しているかを知らない。あれだけの大人数をまとめ上げ、あの演奏水準まで持って行く努力を想像して欲しい、周りからのプレッシャーを感じながら演奏することの大変さを想像して欲しい。千葉女は楽器初心者が多い、8割は高校入学後初めて楽器を手にするという。そこからこれだけの演奏が出来る環境を作るのは本当に凄いことなのである。

半端な楽器経験者にすがり付いて演奏している3流高校オケの連中に比べたら、彼女達はずっと謙虚だし、地道に日々たゆまぬ努力を続けている。そう、逆説だがプライドが高いのは中傷している人間たちの方なのである。

彼女達も当然プライドは持っている、しかしその性質は排他的なものではない。それは「自分を守るプライド」ではなく「音楽を守るプライド」なのだと思う。そしてそういうプライドこそが今多くの学生オケに欠けているモノではないだろうか。

そんなことを色々と考えながら、千葉女の演奏を聴いた。意義深かった。


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