◆ 2004.06.18 Fri
音楽の力
「音楽」の持つ力は凄いとは常々思っているが、実際にあった体験談を聞いていると改めてその不思議な力に驚かされる。
これは僕の友人が語ってくれた体験談である。
言語を越えてるといったら少し大袈裟だけど、抽象的な想いを抽象的なまま伝えられることが音楽の一つの特質だと思う。そしてその「想い」は具体性を帯びていないからこそ、人の心にナチュラルに染み入っていくんだと思う。もちろんそれが全てとは思わないけど。
「季節感」というものも色々な形があって、それは一人一人感受性によって違っていると思う、でも「音楽」というものは絶対的な意味ってものは定められてないからそれらを包括するだけの広がりを持っていくんだと思う。
僕も一人の音楽家として、その抽象的な「想い」をいつも音に乗せて演奏できたらと思っている。それが「音楽」なのだから。
私は3年前から病院のボランティアで七夕とかクリスマスにコンサートを開いて、学生で合唱団をつくって患者さんたちに歌や演奏をプレゼントする企画を大学で立ち上げました。
病院の中ですごしている患者さんたちにとって、病院の中にいると「季節感」がなくなってしまうんだよね。私はそれがとってもいやだった。風の暖かさだったり、花の匂いだったり、緑の美しさだったり、いろいろと感じとって欲しい…と思ったの。
でももうターミナル(末期)の患者さんたちだったから、病院外には出られなくてなおさら季節感なんてゼロで、ただ1日1日が過ぎてくだけだったんだよね。
夢中で練習して、患者さんに想いを伝えたいっていうみんなの気持ちがあった。その歌や演奏を聴いてくれた患者さんたちは目に涙を浮かべて「ありがとう、ありがとう」って何度も言ってくれて、生きててよかったって思ってくれた。
もう意識がなくて心拍も下がってた人がどんどん体温が上がってきて、とってもいい顔になってきたり、もう何年も目を開けなかった人が目を開けたり、声を出さなかった人がいっしょに歌おうと声を出してくれたり・・・不思議なことが目の前で起こったのをいくつも見てきました。
「音楽」ってすばらしい力があって、言葉よりも心に浸透して想いを届けてくれるものなのかもしれないなって思ったよ。触れたり、言葉をかけたり、文字で綴ることもとっても大切なコミュニケーションだけれど、音楽からもいろいろなことを聴いてるひとに伝えることができるって信じてるよ。
これは僕の友人が語ってくれた体験談である。
言語を越えてるといったら少し大袈裟だけど、抽象的な想いを抽象的なまま伝えられることが音楽の一つの特質だと思う。そしてその「想い」は具体性を帯びていないからこそ、人の心にナチュラルに染み入っていくんだと思う。もちろんそれが全てとは思わないけど。
「季節感」というものも色々な形があって、それは一人一人感受性によって違っていると思う、でも「音楽」というものは絶対的な意味ってものは定められてないからそれらを包括するだけの広がりを持っていくんだと思う。
僕も一人の音楽家として、その抽象的な「想い」をいつも音に乗せて演奏できたらと思っている。それが「音楽」なのだから。
◆ 2004.06.11 Fri
ヴァイオリンのボウイング
ヴァイオリンのボウイング(運弓)について。ヴァイオリンの名教師ドロシー・ディレイの発言の中に興味深いものがあった。
ボウイングは自然な動き、自然な動き!なんて先輩に言われてたような人にとってこの発言はもしかするとても奇妙なものに聞こえるかもしれない、ディレイはさらにこう続ける。
自分も色々な後輩にボウイングを教えている中でやはり同じようなことを考えていたことがある、「ボウイングって“自然な動き”じゃない…」と。
腕というのは「円運動」が基本だから、何も考えず「自然に」弓を降ろしたらそれは曲がってしまう。それを肘、手首、指といった間接を上手に機能させることで真っ直ぐなボウイングというのは成立するわけだ。
つまりそこには「意識」というものがある程度必要になる。ここまで考えてくると「ボウイングは自然な動き」というありふれた言い回しが、一見正しいようにみえて実はかなり間違っているのが解ってくる。確かにその「不自然な動き」を「自然な動き」と感じられるくらい体に正しいボウイングを染み込ませるということは必要だろう。
結局、「ボウイングは不自然な動きだが、ナチュラルな感覚でそれができるようにしなければならない 」…というのが事実だと思う。
さあ皆もさっそく「ボウイングは自然な動き」と言う人に突っ込みを入れてみよう。
ボウイングって自然の動作ではないのよ、バレエの踊りのように
ボウイングは自然な動き、自然な動き!なんて先輩に言われてたような人にとってこの発言はもしかするとても奇妙なものに聞こえるかもしれない、ディレイはさらにこう続ける。
みんな演奏旅行に出かけて戻ってくると、弓が弦に対して直角に真っ直ぐ通らなくなって、曲がって弾くのよ。弓に気をつける余裕がないのね。もう一度真っ直ぐ弾く練習をやり直さなければならないの。
バレエダンサーがどのようにして、アヒルのように歩けるか知っていますか?どのようにして、あのように脚を外向きに曲げることが出来るのかしら?
バレエの教師は振り付け師ではないわ。バレエの教師はいつも、“つま先を外に向けて、つま先を外に向けて”とダンサー達に言い続けているのです。アヒルのように歩くのは自然では無いから。
ボウイングもまた不自然です。意識していないと、腕が自然に曲がってしまうから、監視し続ける必要があるのです。
自分も色々な後輩にボウイングを教えている中でやはり同じようなことを考えていたことがある、「ボウイングって“自然な動き”じゃない…」と。
腕というのは「円運動」が基本だから、何も考えず「自然に」弓を降ろしたらそれは曲がってしまう。それを肘、手首、指といった間接を上手に機能させることで真っ直ぐなボウイングというのは成立するわけだ。
つまりそこには「意識」というものがある程度必要になる。ここまで考えてくると「ボウイングは自然な動き」というありふれた言い回しが、一見正しいようにみえて実はかなり間違っているのが解ってくる。確かにその「不自然な動き」を「自然な動き」と感じられるくらい体に正しいボウイングを染み込ませるということは必要だろう。
結局、「ボウイングは不自然な動きだが、ナチュラルな感覚でそれができるようにしなければならない 」…というのが事実だと思う。
さあ皆もさっそく「ボウイングは自然な動き」と言う人に突っ込みを入れてみよう。
◆ 2004.06.10 Thu
環境が助長する恋愛
「期限付きの環境」が恋愛を助長することがある。
僕は高校が男子校だったので、日常的に学校では男とつるんでいた。しかしオーケストラをやってたので「外」に女友達が出来た、中でも高校選抜オーケストラの繋がりが大きかったので地元よりも、県外に沢山の友達を作っていた。
その高校選抜オーケストラの海外公演で僕はその現象を目の当たりにすることになる。約一週間の海外公演の中で、団員同士の間で毎年沢山のカップルが生まれる。(オーストリアの滞在が多かったので、俗に「ウィーン・マジック」などと呼ばれていた)
全国津々浦々の学生が集まったオーケストラだったので、その多くは遠距離恋愛ということになる。そういう意味で僕の高校時代の経験した恋愛は、その殆どが「期限付きの環境が助長した恋愛」だったといっても過言ではないと思う。
「環境に助長され生まれる恋心は真実に非ず」というような考え方をたまに耳にするが、これはあまり正しいとは思えない。相手そのものではなく環境も含めた表象としての「相手」を好きになっている、というのがその考え方の一つの根拠なのだろうが、僕は「相手そのもの」に恋をしているものだけが真実の恋愛だとは言い切れないと思う。
環境に助長され生まれる恋心は「好きになったつもり」であって、本当に「好き」にはなっていないと言う人がいるが。極論を言うと、好きになるという気持ちは全て最初は「つもり」なんじゃないかと思う。恋愛というものは前に述べた通り、形のないものだから確証なんてものは存在しないんだと思う。
「好き」という気持ちが生まれる瞬間というのは大抵シンプルである、しかしそれ色々とこねくり回して考えると、それはどんどん複雑なものになってしまう。だから恋愛で悩む原因というのは、意外と自分の中にその殆どがあると思う。
相手を好きになったら自分の世界で悩むよりは現実の土を踏んで、その相手に「小さなアクション」を起こすことが大事だと思う。恋愛は確かにどこまで行っても形のないものだが、「相手自身」と向き合うことでそれはほんの少しだけ具体性を持っていくと思う。
「恋に恋する」、素敵な言葉じゃないか。初めはそれでも構わないと僕は思う。少しずつその「恋」の焦点を、その人自身に合わせて行けば良いのだから。
僕は高校が男子校だったので、日常的に学校では男とつるんでいた。しかしオーケストラをやってたので「外」に女友達が出来た、中でも高校選抜オーケストラの繋がりが大きかったので地元よりも、県外に沢山の友達を作っていた。
その高校選抜オーケストラの海外公演で僕はその現象を目の当たりにすることになる。約一週間の海外公演の中で、団員同士の間で毎年沢山のカップルが生まれる。(オーストリアの滞在が多かったので、俗に「ウィーン・マジック」などと呼ばれていた)
全国津々浦々の学生が集まったオーケストラだったので、その多くは遠距離恋愛ということになる。そういう意味で僕の高校時代の経験した恋愛は、その殆どが「期限付きの環境が助長した恋愛」だったといっても過言ではないと思う。
「環境に助長され生まれる恋心は真実に非ず」というような考え方をたまに耳にするが、これはあまり正しいとは思えない。相手そのものではなく環境も含めた表象としての「相手」を好きになっている、というのがその考え方の一つの根拠なのだろうが、僕は「相手そのもの」に恋をしているものだけが真実の恋愛だとは言い切れないと思う。
環境に助長され生まれる恋心は「好きになったつもり」であって、本当に「好き」にはなっていないと言う人がいるが。極論を言うと、好きになるという気持ちは全て最初は「つもり」なんじゃないかと思う。恋愛というものは前に述べた通り、形のないものだから確証なんてものは存在しないんだと思う。
「好き」という気持ちが生まれる瞬間というのは大抵シンプルである、しかしそれ色々とこねくり回して考えると、それはどんどん複雑なものになってしまう。だから恋愛で悩む原因というのは、意外と自分の中にその殆どがあると思う。
相手を好きになったら自分の世界で悩むよりは現実の土を踏んで、その相手に「小さなアクション」を起こすことが大事だと思う。恋愛は確かにどこまで行っても形のないものだが、「相手自身」と向き合うことでそれはほんの少しだけ具体性を持っていくと思う。
「恋に恋する」、素敵な言葉じゃないか。初めはそれでも構わないと僕は思う。少しずつその「恋」の焦点を、その人自身に合わせて行けば良いのだから。
◆ 2004.06.10 Thu
音楽と私どっちが大事?
僕は自分から告白するよりも告白されることのほうが多いタイプだった。
といっても別にモテたと言うわけではなくて、その中身は少しばかり複雑である。昔の僕は結構姑息な人間で、自分が好きになった女性を自分を好きにさせて相手に告白させる、という臆病で姑息な恋愛スタンスを持っていた。
昔の自分にとっては「音楽が一番」で、絵に描いたような音楽に恋をする少年だった。だから「と相手に問い詰められたら終わりだと思っていた。だからこそ僕の場合は音楽(オーケストラ)をやっている人と付き合うことで、そういう衝突を無意識に避けていたんだと思う。
でも今になって考えると、この問い掛けをすること自体おかしい事のように思えてくる。そもそも愛というのは個別の(孤高の)存在であり比べることができないものだ。「どっちが大事?」という問い掛けに答えるのは非常に難しい、その問いかけを具体的なものに言い換えてしまえば結局は、「どちらがどれだけ依存していて、時間を多く費やすのか?」ということになっていくと思う。
愛する気持ちそのものは本来、形の無いもので「量」という概念はないが、愛する人との営み(日常会話からセックスまで幅広い意味での)は形あるもので、当然「時間」とそれに伴う「満足感」が具体的な量・質感を持って来ると思う。
それ自体が愛であるとは思わないが、一つの「物差し」にはなり得る。人間は形無きものになんらかの量・質感を与えることで認識しようとする、その理由は簡単で、その方が心地が良いし何より「安心する」からなのだろう。
しかしここに「落し穴」が存在しているんじゃないかと僕は思う。形而下の量・質感が愛とイコールとは限らないし、気持ちを計る尺度ではない。しかし、人はしばしばそれらを尺度にして愛そのものを計ったような気になってしまう。
量・質感という概念によって認識された愛が形あるものへと具象化されてしまう、これは恐ろしいことだ。形而下に放たれた愛は傷だらけになってしまうことが多い、結果的には自分達で愛を叩き台に乗せることになる。そう考えるとやはり愛というのは他のものと比べてはならないものだと思う。
音楽と恋愛どっちが大事?
どっちも大事に決まってるじゃないか!
といっても別にモテたと言うわけではなくて、その中身は少しばかり複雑である。昔の僕は結構姑息な人間で、自分が好きになった女性を自分を好きにさせて相手に告白させる、という臆病で姑息な恋愛スタンスを持っていた。
昔の自分にとっては「音楽が一番」で、絵に描いたような音楽に恋をする少年だった。だから「と相手に問い詰められたら終わりだと思っていた。だからこそ僕の場合は音楽(オーケストラ)をやっている人と付き合うことで、そういう衝突を無意識に避けていたんだと思う。
でも今になって考えると、この問い掛けをすること自体おかしい事のように思えてくる。そもそも愛というのは個別の(孤高の)存在であり比べることができないものだ。「どっちが大事?」という問い掛けに答えるのは非常に難しい、その問いかけを具体的なものに言い換えてしまえば結局は、「どちらがどれだけ依存していて、時間を多く費やすのか?」ということになっていくと思う。
愛する気持ちそのものは本来、形の無いもので「量」という概念はないが、愛する人との営み(日常会話からセックスまで幅広い意味での)は形あるもので、当然「時間」とそれに伴う「満足感」が具体的な量・質感を持って来ると思う。
それ自体が愛であるとは思わないが、一つの「物差し」にはなり得る。人間は形無きものになんらかの量・質感を与えることで認識しようとする、その理由は簡単で、その方が心地が良いし何より「安心する」からなのだろう。
しかしここに「落し穴」が存在しているんじゃないかと僕は思う。形而下の量・質感が愛とイコールとは限らないし、気持ちを計る尺度ではない。しかし、人はしばしばそれらを尺度にして愛そのものを計ったような気になってしまう。
量・質感という概念によって認識された愛が形あるものへと具象化されてしまう、これは恐ろしいことだ。形而下に放たれた愛は傷だらけになってしまうことが多い、結果的には自分達で愛を叩き台に乗せることになる。そう考えるとやはり愛というのは他のものと比べてはならないものだと思う。
音楽と恋愛どっちが大事?
どっちも大事に決まってるじゃないか!
◆ 2004.06.03 Thu
ドラマみたいな恋
「ドラマみたいなこと」って意外とあるんじゃないかと思う。
これは友人の語ってくれた言葉である。
片思いの恋愛では「相手にどれだけ伝えられるか」が大事になってくるが、「好き」という一言に行き着くまでの長い長い旅路は相手には見えないから本当に悩ましい。それ故に恋する人はみな苦しむし、時には心から裏切られる。世の中全てが上手く行くものではない。
しかし、常に自分の「幸せ」に向かってたゆまず前に進もうとする「意思」は美しいし本当に素敵だと思う。
個人の内面の世界というのは自分で思っている以上にロマンティックで、意外とリアリスト演じてる人ほど内面はロマンに溢れていたりする。でもそういう部分があるから恋は美しく燃えるんだなーと思う。燃えるだけに時には燃え尽きてしまうこともあるが…切ないな。
僕はあくまで永遠性というものを求め続けて行きたいと思う、幻想かもしれないけどそれが幻想だと解っているから怖くはならない。
思っているように上手く行かなくて現実世界が灰色に見えてしまう事もあるだろう。灰色の世界であることを認識した上で、そこをどう歩いていくかだと思う。
そう、幻想というのは目的地でなく、ベクトルの向かう方向を決める目印だと思う。したがって真に重要なのは自分の「現在地」なんだと思う。街にある地図には必ず現在地に印がついているのを考えても解るように、現在地がわからないと行きたい所へ行くための道は見つけられない。
何故、人は幻想を追い求めるか。シンプルに言って、その方が「面白い」からかもしれない。なんでも幻想と決め付けて見向きもしない人の人生はさぞつまらないだろう。
もしこの世の中が、夢のないリアリストだけが生き残る冷たい世界なのだったら、僕は海に身投げしようと思う。というのは半分本気で半分冗談だが。ふふふ。
恋愛においても人生においても。たくさんの「成功」を知っている人間よりも「失敗」のケースを知っている方が、人生を長いスパンで観たら強いと思う。次に同じ壁(失敗)に出くわしてもそれを「知っていれば」乗り越えられるから。そういう意味で人生トントン拍子で上手くいった人間は怖いと思う。
最近(でもないけど)昔の友達とかが片思いしてて、話を聴いているとその人が相手を思う気持ちが伝わってきて、「あぁこんなに好きなんだ・・・」って思う。
僕は「頑張って」なんて言ったけど、そんな言葉じゃ届かない位のところで彼は相手を思っているのかもと思う。だからこそうまくいって欲しい。もしも相手の気持ちが彼を向かなくても、彼の思いが伝わりますように。
気持ちを伝えることはすごく難しくて、いつもやり方に戸惑ってしまうもの。どうやるのが一番うまく伝わるんだろう なんてとりとめもなく考えたりして夜が過ぎる。
言葉で言うのは軽すぎるんじゃないか、いつ言い出したらいいんだと悩んでは言葉が喉につかえて出てこない。文字にして書こうかと珍しく便箋を買ってきたり、書いた字を眺めてはもっときれいに書けたんじゃないかと新しい紙をめくる。
こうして外に出た気持ちのうち一体どのくらいが相手に伝わるのだろう。彼女は知っているだろうか、この便箋が束で買った最後の一枚だということを彼女は知っているだろうか、今口にした言葉を言うためにこの数ヶ月があったことを。
思いの全てを伝えることなんて叶わない。でもそれでいい。今は。届かなかった僕の思いの一部はこの先君が僕を見てくれたときに同じように返してもらおう。そう思って僕は立ち止まる。「あのさ、・・・」
―こういうものじゃないのかなぁ。恋愛って。「ドラマみたいなことってないよね」とはよく言うけど、意外にそういうことってあるんじゃないかって思う。それは決して他人には見せないけど、自分の中にある純粋な思いとして。
これは友人の語ってくれた言葉である。
片思いの恋愛では「相手にどれだけ伝えられるか」が大事になってくるが、「好き」という一言に行き着くまでの長い長い旅路は相手には見えないから本当に悩ましい。それ故に恋する人はみな苦しむし、時には心から裏切られる。世の中全てが上手く行くものではない。
しかし、常に自分の「幸せ」に向かってたゆまず前に進もうとする「意思」は美しいし本当に素敵だと思う。
個人の内面の世界というのは自分で思っている以上にロマンティックで、意外とリアリスト演じてる人ほど内面はロマンに溢れていたりする。でもそういう部分があるから恋は美しく燃えるんだなーと思う。燃えるだけに時には燃え尽きてしまうこともあるが…切ないな。
僕はあくまで永遠性というものを求め続けて行きたいと思う、幻想かもしれないけどそれが幻想だと解っているから怖くはならない。
思っているように上手く行かなくて現実世界が灰色に見えてしまう事もあるだろう。灰色の世界であることを認識した上で、そこをどう歩いていくかだと思う。
そう、幻想というのは目的地でなく、ベクトルの向かう方向を決める目印だと思う。したがって真に重要なのは自分の「現在地」なんだと思う。街にある地図には必ず現在地に印がついているのを考えても解るように、現在地がわからないと行きたい所へ行くための道は見つけられない。
何故、人は幻想を追い求めるか。シンプルに言って、その方が「面白い」からかもしれない。なんでも幻想と決め付けて見向きもしない人の人生はさぞつまらないだろう。
もしこの世の中が、夢のないリアリストだけが生き残る冷たい世界なのだったら、僕は海に身投げしようと思う。というのは半分本気で半分冗談だが。ふふふ。
恋愛においても人生においても。たくさんの「成功」を知っている人間よりも「失敗」のケースを知っている方が、人生を長いスパンで観たら強いと思う。次に同じ壁(失敗)に出くわしてもそれを「知っていれば」乗り越えられるから。そういう意味で人生トントン拍子で上手くいった人間は怖いと思う。
◆ 2004.06.02 Wed
冷たい心理学
僕は教育、心理関係の学問を志している。
といっても内容はとりわけ難しいというものではない、まぁ教授は難しいことやってもそれを受け止める学生が理解できないと思って講義の中では踏み込まないようだ。個人的に教授と仲良くなれば話は別だが。
最近はむしろ心理に興味が傾いてきつつある、行動を科学するのは非常に面白い。心理学というのは勉強していると冷たい学問であることがわかる。そして、ここが一般には誤解されてると思う。
それは心理学を例えば「人の相談に乗る」とか親身で温かい行動の延長線上にあるもの、みたいなイメージで捉えてる人は多いようだ。それは心理カウンセラーとかの仕事と勝手に結びつけることから生まれるのだろう。
しかし、実際はそのイメージしているものとはかなり違う。
そもそも人間の「心」を科学する」ではなく、人間の「行動」を科学する学問なので人間をある種モルモット的に扱うというある種の「冷たい視点」が必要になってくる。
心理学の人気が高まってる昨今だが、学問そのものを勘違いしたまま、「心理学やりたいです!」と言う学生は未だに多いようだ。
といっても内容はとりわけ難しいというものではない、まぁ教授は難しいことやってもそれを受け止める学生が理解できないと思って講義の中では踏み込まないようだ。個人的に教授と仲良くなれば話は別だが。
最近はむしろ心理に興味が傾いてきつつある、行動を科学するのは非常に面白い。心理学というのは勉強していると冷たい学問であることがわかる。そして、ここが一般には誤解されてると思う。
それは心理学を例えば「人の相談に乗る」とか親身で温かい行動の延長線上にあるもの、みたいなイメージで捉えてる人は多いようだ。それは心理カウンセラーとかの仕事と勝手に結びつけることから生まれるのだろう。
しかし、実際はそのイメージしているものとはかなり違う。
そもそも人間の「心」を科学する」ではなく、人間の「行動」を科学する学問なので人間をある種モルモット的に扱うというある種の「冷たい視点」が必要になってくる。
心理学の人気が高まってる昨今だが、学問そのものを勘違いしたまま、「心理学やりたいです!」と言う学生は未だに多いようだ。
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