◆ 2004.09.20 Mon
「揚げひばり」
一時期ヴォーン・ウィリアムズの「揚げひばり」というヴァイオリンの曲をよく弾いていた。前から好きだった曲だが、たまたま楽譜を手に入れたのをきっかけに弾くようになった。後輩には「最近、練習の合間に必ずその曲弾いてますよねー」とか言われたりして、しまいにはリクエストされるようになった。

言うまでもないが「揚げひばり」とは「油で揚げたひばり」という意味ではなくて、舞い上がるという意味の「揚げ」である。鳥の唐揚げではない(笑)。
原題は「The Lark Ascending」、直訳すると「舞い上がるひばり」といった感じだろうか。作曲者自身は「ヴァイオリンとオーケストラのためロマンス」というタイトルを付けたわけだが、この「揚げひばり」という呼称が一般的になっていき、よく知られるようになっている。
しかし、僕はこの「揚げひばり」という言い回が、あまり好きになれない。DECCAレーベルのあるCDにはそこを考慮してか、「舞い上がるひばり」という邦題に訳されたものを見たことが一度だけある。でもそういった表記をしているものはその一枚のみで、他のCDはどれを見ても「揚げひばり」と書いてある。まぁタイトルなんてどうでも良いのだけども、なんとなく語ってみた。
この作品は作曲者がジョージ・メレディスの詩に霊感を受けて書かれた作品で、自筆のスコアにはその一部が引用されている。
イギリスの田舎の美しい空を飛び回るひばりの姿が目に浮かぶようである。曲中ではヴァイオリンはひばりの鳴き声をモティーフにした旋律が次々と織り成されていく、そのロマンティックな情調にはうっとりしてしまう。ここに何枚か比較的手に入りやすい録音を挙げておこう。
どちらもリンク先で曲の一部が試聴できるようになっているので、この文章を読んで少しでも興味が沸いたという方は是非聴いてみて欲しい。そして「こういう曲好きだ!」と感じた方には、他のイギリスの作曲家の作品をいろいろと聴いてみることを強くお薦めする。
ここで僕のいう「イギリスの作曲家」の中には、エルガーは含まれていない。「英国音楽=エルガー」というステレオタイプをお持ちの方は多いと思うが(あるいはホルストのイメージが強い人も多いだろう)、彼の音楽はどちらかというと洗練された高貴な精神があり、「揚げひばり」の作品に漂っているような素朴さはない。でも不思議な事に、エルガーのヴァイオリン協奏曲とカップリングされることが多い。事実、上に挙げた2枚がそうだ。
イギリスの民謡へのルーツを感じさせる作曲家の代表を挙げるなら有名なところではこの「揚げひばり」の作曲者であるヴォーン・ウィリアムズ。他にはジェラルド・フィンジ、 アーネスト・モーラン、フレデリック・ディーリアス、ハーバート・ハウェルズあたりを聴いていくと面白いと思う。

言うまでもないが「揚げひばり」とは「油で揚げたひばり」という意味ではなくて、舞い上がるという意味の「揚げ」である。鳥の唐揚げではない(笑)。
原題は「The Lark Ascending」、直訳すると「舞い上がるひばり」といった感じだろうか。作曲者自身は「ヴァイオリンとオーケストラのためロマンス」というタイトルを付けたわけだが、この「揚げひばり」という呼称が一般的になっていき、よく知られるようになっている。
しかし、僕はこの「揚げひばり」という言い回が、あまり好きになれない。DECCAレーベルのあるCDにはそこを考慮してか、「舞い上がるひばり」という邦題に訳されたものを見たことが一度だけある。でもそういった表記をしているものはその一枚のみで、他のCDはどれを見ても「揚げひばり」と書いてある。まぁタイトルなんてどうでも良いのだけども、なんとなく語ってみた。
この作品は作曲者がジョージ・メレディスの詩に霊感を受けて書かれた作品で、自筆のスコアにはその一部が引用されている。
ひばりは空に舞い上がり くるくると回り始め歌を歌う
それは銀の鎖 フォルティッシモやピアニッシモ、
スラーにトリル…色々な輪が 延々とつなげられた鎖
歌の鎖は天に届き 地上には愛があふれだす
どこまでも高く ひばりが羽ばたいていく
谷はきらきらと輝き ひばりの杯となる
ひばりの歌は葡萄酒となり その杯を満たす
そしてわたしたちも天に昇っていく ひばりとともに
やがてひばりは光の輪の中に消えていった
あとには歌のまぼろしだけを残して…
イギリスの田舎の美しい空を飛び回るひばりの姿が目に浮かぶようである。曲中ではヴァイオリンはひばりの鳴き声をモティーフにした旋律が次々と織り成されていく、そのロマンティックな情調にはうっとりしてしまう。ここに何枚か比較的手に入りやすい録音を挙げておこう。
●ケネディ(Vn)/ラトル指揮 バーミンガム市響/EMI (97年)
ケネディの独奏にラトル&バーミンガム市響のバックというこてこてのイギリス人による演奏。自国の作品への深い共感を感じる熱い演奏、変人ケネディもやる時はやる。個人的にベスト。
●ハーン(Vn)/ デイヴィス指揮 ロンドン響/DG (2003年)
ヒラリー・ハーンのすっきりと洗練されたソロが非常に美しくこれも魅力的な一枚。ただ伴奏のオケが重いのがちょっと気になる、もう少し薄い伴奏の方が個人的には好み。
どちらもリンク先で曲の一部が試聴できるようになっているので、この文章を読んで少しでも興味が沸いたという方は是非聴いてみて欲しい。そして「こういう曲好きだ!」と感じた方には、他のイギリスの作曲家の作品をいろいろと聴いてみることを強くお薦めする。
ここで僕のいう「イギリスの作曲家」の中には、エルガーは含まれていない。「英国音楽=エルガー」というステレオタイプをお持ちの方は多いと思うが(あるいはホルストのイメージが強い人も多いだろう)、彼の音楽はどちらかというと洗練された高貴な精神があり、「揚げひばり」の作品に漂っているような素朴さはない。でも不思議な事に、エルガーのヴァイオリン協奏曲とカップリングされることが多い。事実、上に挙げた2枚がそうだ。
イギリスの民謡へのルーツを感じさせる作曲家の代表を挙げるなら有名なところではこの「揚げひばり」の作曲者であるヴォーン・ウィリアムズ。他にはジェラルド・フィンジ、 アーネスト・モーラン、フレデリック・ディーリアス、ハーバート・ハウェルズあたりを聴いていくと面白いと思う。
◆ 2004.09.16 Thu
過去を問いかける写真
なんとなく昔の写真を整理していて見つけた一枚。

中央で両手でVサインをしているのが自分である、小さい。ちなみに左下の女の子は初恋の人ユウコちゃん…懐かしい。三年前、偶然再会した時とても美人になってて驚いた、同時にこんなにも月日が経ってしまったのかと思った。小さい頃は両親に「僕ユウちゃんに指輪プレゼントする!」と真面目な顔をして言ってたのをお母さんは今でも覚えているという。
あの頃はとにかくやんちゃ坊主で悪戯ばかりしていた。でも保育所で遊ぶのはいつも女の子ばかり、男の子がみんな外で泥んこ遊びをしている時でも、屋内で女の子たちとおままごとをしていた。(そしていつも「お父さん」役を演じていた)この頃からピアノも習ってたし、どこか女の子的な遊びに親しみを覚えていたんだと思う。
そんな幼少期の自分が怖かったものは「大きな音」。花火大会に連れて行かれたときにその爆発音に怯え泣きじゃくっていたという。綺麗なのに…。そんな自分を思い出させる象徴的な一枚を見つけた。

綱引きの種目でスタンバイをする自分、周りの子は綱を握り締めピストルの合図を待っているが、自分は綱も握らず怯えた顔をして耳を塞いでいる。しかも後ろに立っているのは僕のお父さんだ。おそらく運動会の手伝いをしていたのだろう。
「時間を閉じ込める写真、過去を問いかける写真…」
高校時代書いた文章の中で、自分は写真というものについてそんな風に書いていた。一枚の写真が時を越えて閉じ込められた時間を、思い出(過去)を語りだす。意地悪なくらい優しい声で。写真を見ていて久しぶりに涙が込み上げた。
「写真は語る。」、そんな言い回しが頭の中に浮かんだ。とりわけ失ってしまったモノ、もうと取り戻せないモノが写された写真は本当に多くのことを語る。生前の父の写真、昔の恋人の写真…全てが語りだす。いつだって、意地悪なくらい優しい声で。写真は撮っておいた方が良い、そう思うようになった。いつ失ってしまうか分からないから。
友人にとても素敵な言葉を紡ぐ女の子がいて、その人の言葉がふと脳裏を過ぎった。
僕がここまで語ってきた写真の話とは無関係に思えるが、ここに出てくる「小さな死の別れ」と僕の捉える「写真を撮る」という行為の意味付けとの間に僕は少しだけ同じ空気を感じた。写真を撮るということ(すなわち時間を閉じ込めること)はその自分が生きている瞬間に別れを告げることなのかもしれない。「今」を閉じ込めることは眼前を流れる時間への「告別」だと。
意地悪なくらい優しい声で死んだ時間達が語りだす夜だった。

中央で両手でVサインをしているのが自分である、小さい。ちなみに左下の女の子は初恋の人ユウコちゃん…懐かしい。三年前、偶然再会した時とても美人になってて驚いた、同時にこんなにも月日が経ってしまったのかと思った。小さい頃は両親に「僕ユウちゃんに指輪プレゼントする!」と真面目な顔をして言ってたのをお母さんは今でも覚えているという。
あの頃はとにかくやんちゃ坊主で悪戯ばかりしていた。でも保育所で遊ぶのはいつも女の子ばかり、男の子がみんな外で泥んこ遊びをしている時でも、屋内で女の子たちとおままごとをしていた。(そしていつも「お父さん」役を演じていた)この頃からピアノも習ってたし、どこか女の子的な遊びに親しみを覚えていたんだと思う。
そんな幼少期の自分が怖かったものは「大きな音」。花火大会に連れて行かれたときにその爆発音に怯え泣きじゃくっていたという。綺麗なのに…。そんな自分を思い出させる象徴的な一枚を見つけた。

綱引きの種目でスタンバイをする自分、周りの子は綱を握り締めピストルの合図を待っているが、自分は綱も握らず怯えた顔をして耳を塞いでいる。しかも後ろに立っているのは僕のお父さんだ。おそらく運動会の手伝いをしていたのだろう。
「時間を閉じ込める写真、過去を問いかける写真…」
高校時代書いた文章の中で、自分は写真というものについてそんな風に書いていた。一枚の写真が時を越えて閉じ込められた時間を、思い出(過去)を語りだす。意地悪なくらい優しい声で。写真を見ていて久しぶりに涙が込み上げた。
「写真は語る。」、そんな言い回しが頭の中に浮かんだ。とりわけ失ってしまったモノ、もうと取り戻せないモノが写された写真は本当に多くのことを語る。生前の父の写真、昔の恋人の写真…全てが語りだす。いつだって、意地悪なくらい優しい声で。写真は撮っておいた方が良い、そう思うようになった。いつ失ってしまうか分からないから。
友人にとても素敵な言葉を紡ぐ女の子がいて、その人の言葉がふと脳裏を過ぎった。
「良く生きる」為には、人間はまず日々の人生の全体的見通しの上に立った理想を打ち立てなければならない。人生の理想を持つことである。
ここで理想というのは、断片的な生活目標の事ではない。人生の理想は、もっと総合的な、基本的なものである。自分にとってはこれこそ自分の一生にとっての道と考えるような物である。
人生全体の見通しの上に立って、いつかは死すべき自分である事も反省し、その上にハッキリした理想を打ち立てる事は、容易な事ではない。しかし、良く生きるためには、それが必要欠くことのできない前提である。
死とは特別な物には違いないが、一種の別れの時なのだ。人は平生の生活の中でも、小さな別れのときの悲しさ、辛さを度々経験し、別れの時は心の準備をしてその辛さに耐えるが、それにもかかわらず、もっと本格的な死の場合、かえって人間は準備していない。
ならば、思い切って準備してはどうかと気付いたのだ。
そして、それは今いる人たちに別れを惜しむ事であり、自分の生きてきた世界に後ろ髪を惹かれるようにして死んで行く事である。死はそういう別れ方だと考えるようになった。
つまり、死の恐怖に耐える方法は死から強いて目をそむける事ではなく、日々の生活の中で小さな死の別れを繰り返して心の準備をしておく事である。
僕がここまで語ってきた写真の話とは無関係に思えるが、ここに出てくる「小さな死の別れ」と僕の捉える「写真を撮る」という行為の意味付けとの間に僕は少しだけ同じ空気を感じた。写真を撮るということ(すなわち時間を閉じ込めること)はその自分が生きている瞬間に別れを告げることなのかもしれない。「今」を閉じ込めることは眼前を流れる時間への「告別」だと。
意地悪なくらい優しい声で死んだ時間達が語りだす夜だった。
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