◆ 2004.10.20 Wed

ブラームス交響曲第4番の裏話

ある指揮者の先生が教えくださったブラームス交響曲第4番の裏話。

彼はこの地の美しい月夜の晩のことをクララ・シューマンに宛てた手紙の中で言っています。「ぜひ、あなたと一緒に見たい」と。

生涯結婚をすることの無かったブラームスですが、クララに対する愛情は計り知れないものがあったようです。そんなミュルツツーシュラークでしか書きたくないと考え、わざわざ2年続きでこの地の夏に滞在して仕上げたのが交響曲第4番です。

火事で左右どちらかの家屋が焼けるのですが、仲間を助けるのに一生懸命でつい自分の交響曲の書きかけの楽譜を避難させ忘れたそうです。心ある友人がその楽譜を救助して今この名曲があるというわけだそうです!

ブラームスの人柄をしのばせる何ともほのぼのとしたエピソードですね。

火事の話は昔どこかでチラッとみた聞いた記憶があるが、今改めてその話を聞くと凄い話だ。ここで楽譜をとりにいかず仲間を助けるブラームスの「友情」、そして楽譜を救助してくれた友人の「友情」。この二つはやはりリンクしてる感じがする。

ブラームスというと孤独なイメージがどうしても付きまとってしまうのだが、それは偏見かもしれない。そういう美談を聞くと少しイメージが変わる。

生涯結婚しなかったブラームスだが、若い頃の写真をみるとかなりの美少年である。クララへの愛はいうまでもなく有名だが、僕がブラームスの恋愛を思い浮かべる時に、忘れられないのはアガーテ・フォン・ジーボルトとの恋愛だ。これは25歳の時の話。彼女とは結婚指輪を交わすところまでいったのに、ブラームスは「愛しているが、束縛されるのは好まない」というような内容の手紙を書いてしまう、そして結果的にこの婚約を破棄された。こういうエピソードを聞くと25歳にしてかなり精神的には老け込んでいたのかなと思う、「淋しいけど孤独が好き」みたいな感じ。暗い。

ブラ4といえば武蔵野音大の図書館に指揮者の先生とブラームスの交響曲第4番の自筆譜のコピーを見に行ったことがある。新しい発見がいっぱいあって面白かった、特にブラ4の冒頭に当初あった幻の4小節(*1) を見たときは思わず身震いがした。

祈りのコードから紡ぎだされる、三度の応酬…この作品の本当の姿が少しずつ現われていった。1楽章のまるでレクイエムのような祈りと嘆き、2楽章の教会旋法と甘く切ない追憶(或いは夢想、逃避)、3楽章の楽天的でデモーニッシュな諧謔、終楽章の生への模索(変奏の繰り返し)と、黒く燃えるような生命力。そして変奏の完成から読み取れる生きようという決意。

楽章間の有機的な繋がりがはっきりとみえてきた。考えれば考えるほどものすごい作品である。

(*1) ブラームスは当初4番の冒頭に、4小節に渡るアーメンの和音を挿入しようと考えたが、結局は採用しなかったのだった。自筆譜にはバツ印で消されたその幻の4小節が残っている。
◆ 2004.10.11 Mon

知ってる女の子

zipperという女性ファッション雑誌がある。

特集してる服はかなり個性的ではじけたものが多い、どちらかというと中高生向きな感じの雑誌だと思う。でも個人的にあの雰囲気が高校時代は結構好きだった、実際、高校時代付き合っていた人もzipper系だった。

こないだ久しぶりにzipperを読んで気付いたことがある。

自分はあの服の系統が好きだったのではなくて、あの雑誌に出ているモデルさんの顔、仕種、表情…つまり人間の醸し出す「雰囲気」が好きだったのだと。その「雰囲気」ってものは決して自然に出たものではなくてその雰囲気を醸し出している本人もその魅力を十分に理解し、一番いい形で実践していると思う。中でも池田香織、中井幹子の二人は雰囲気がある。  

元来そういう本当の意味で自分の魅力を理解し形に出来る人間はモデルや女優さんに多いものだ。しかし日常生活を生きていると一般人でも自分の魅力をしっかりと解っていてそれを最高の形(つまりメイク、髪型、服装などの絶妙な選択)で自分のものにしている女性というのをたまにみかける。

僕はそういう女の人を見かけたときよく友達に面白半分で「あの子は知ってる。」と呟いている。

ここで出てくる「知ってる」という単語の目的語は複数あってそれは「自分の魅力」、「自分のスタイル」、「自分が他人の目にどう映っているか」などを指す。そしてこの3つ目にあげた「客観的視点」というのが、女性の魅力にとって最も重要なものではないかと思っている。

ここでもっとも僕が強調したいのは「顔の良し悪し」が最重要ではないということ。もともとの顔が可愛いに越したことはないが、自分の雰囲気を持っていない女性、自分のスタイルを持っていない女性は魅力に欠ける。

上に挙げたモデルの中井幹子などは、顔に子供らしさがあり、もともとの顔のベースは絶世の美人とはお世辞にもいいがたい。しかし彼女はその子供らしさを女性的な魅力に上手く昇華していて、普通の女性にはないなんともいえない可愛さを演出している。

衣服には防寒などのいわゆる体温調節の役割もあるが、「お洒落をする」、つまり自分を「演出する」という役割もある。演出には必ず「対象」がある、逆に言ってしまえば対象があるからこそお洒落は生まれるとも言えるだろう。

異性と付き合った途端にお洒落で可愛くなる女性というのを見かけることがよくある。それは「彼氏」という自分を見つめる対象がもっともシンプルな形で現れるからじゃないだろうか。もちろん彼氏の趣味に染まっていくという場合も多いと思うが。

まとめると、ここで言いたいのはお洒落は「対象」ありきということ。上では衣服というものを例に取り上げてそのことを語ってきたが、それだけでなく他にはメイク、ヘアスタイルについても同じことがいえる。 そういったものが雰囲気をつくりだし、魅力へと繋がっていくと思う。

しかし人それぞれ元来持っている雰囲気にそれがマッチしていないと、それは逆効果も生みかねない。そこには幾つかの「選択」が存在する。この選択を的確に行うには「自分」を正しく知ることが必要だと思う、ここでいう「自分」とは周りからの目、つまり客観的視点における自分だ。

客観的視点が優れた女性は、本当に絶妙な選択を重ねていく、それと共に仕種や表情にも特別な雰囲気(魅力)が備わっていく。そうしたプロセスを重ね自分だけのスタイルを獲得している女性を、僕は「あの子は知ってる。」という言葉で面白おかしく表現しているのだ。

もちろんそれらの全てが計算された意図的なものだと考えると、嫌な印象を受ける人もいると思う(女性不信になる人もいるかもしれない)。でも安心してもらいたい、そういったモノの根源にあるのは間違いなくその人が元来持っている「魅力」なのだから。
◆ 2004.10.09 Sat

死を想い、生を想う

最近、「死」というものについてよく考えている。

きっかけは自分の愛すべき人の親友が突然亡くなったこと。もともと父を亡くした時にも死について色々と考えていたので、そのころ考えていたことが一気に蘇ってきた感じだ。昨日まで当たり前のように存在していた人間が、突然いなくなってしまうことがこの世の中にはある。

認識が現実に追いつかず、「これは夢なのか」とさえ思う。現実がまだ柔らかいオブラートに包まれているうちは、不思議と悲しい感覚はそれほどなくて、ただ呆然としている。しかし認識が色濃くなるにつれてそれが「現実」だと思い知らされる。夢のような世界がじわじわと現実味を帯びていく恐ろしい感覚、それはもう、今までに出会ったことの無い苦しい経験だった。

「生きること」、それは同時に「死に向かっていくこと」でもある。人間は誰しもそのことを頭のどこかではいつもわかっていて、あまり深く考え込まず、「生きるため」にその事実を隠しておく。世の中に、「死」ほど悲しくそして恐ろしいものはないからだ。

それでも「死」という言葉は日常に溢れていて、よく耳にもする。しかし、それらの中で本当の意味での「死」を意味しているものは、ごく僅かであろう。多くの人間は、死を「現実」ではなく「イメージ」として捉えている。そしで街ですれ違う若者達は気だるい表情でこう呟く…

「あー学校死ぬほどダルい…」
「○○むかつく、マジ死んで欲しい。」

確かにそこで(あまりにも安易に)使われている「死」という言葉は、あくまでイメージであって現実としての死を意味してはいない。僕もそうやって生きていたし、そうやって生きていくはずだった。しかし父を亡くした時、僕は「死」という言葉の持つ本当の意味を、「死」という現実の重さを、決定的な形で思い知らされた。

そのことは一見自分にとっては人生最悪の経験のように思われた。確かにそれをきっかけに僕は色々な「繋がり」を絶ってしまった、友人と連絡を取らなくなり自分の世界に閉じこもる日々が続いた。人間的にも暗くなりそのころから「ネクラ」という言葉が僕に向かい発せられるようにもなった、昔は明るくて活発な子供だったのにいつの間にか人間性が180度変わってしまっていた。

時は経ち、現実を少しずつ整理することが出来るようになった。そして何故か僕は「生きよう」と強く思うようになっていた。生きるということそのものに内在していた「価値」の再発見、おそらく僕の心の中にはそんなものがあったように思う。愛すべき人、愛すべき家族、愛すべき親友を大切にしたい、そんな一見当たり前のことを改めて考えるようになった。 そしてそういう素晴らしい人間達と同じ時を生きていることがまるで奇跡のようにさえ思えた。人生最悪に思えた経験が与えるものは決してマイナスのものばかりではなかった。

生きなければ、というそのとき生まれた思いは今でも変わらない。大きな「死」を経験して沢山のかけがえのない「生」を想う。全ての愛すべき人間のために、死んでいった父のために、そして何より自分のために生きていきたいと思う。たとえどんなに辛いことがあっても、悲しいことがあっても。

死を想い、生を想う。そんなひとりぼっちの夜だった。
◆ 2004.10.08 Fri

外来語について

国立国語研究所の「外来語」委員会の存在を知っているだろうか?日常にも沢山外来語が溢れるようになっている今日、たしかにそれは便利なものだし日本にはない価値観や思想、言葉のニュアンスを伝えるうえでは重要なものだが。読み手の理解度を考えた配慮より、書き手の使い易さを優先しているような一面も確かにあるような気がする。そういう言葉を指摘して言い換え例などを作成してるのがこの委員会である。

それではここで外来語の理解度チェックしてみよう。

【問題】:次の用語の意味を述べよ

1.アカウンタビリティー
2.プレゼンス
3.ボトルネック
4.マンパワー

どの言葉も新聞やテレビでよく使われる言葉だ、主に企業や政治の話題で出てくることの多い言葉だと思う。 英語がそれなりに使える方、新聞やニュースを見ている方、そして企業で働いてる社会人の方ならすぐ解るだろう。

答えは1が「説明責任」。accountabilityを素直に訳すと、「責任」という意味があるが responsibility(=責任)とは違い、「個人」レヴェルのものではなくもっと大きな「組織」をにとっての責任、つまり個々人ではなく個々人が活動する組織の関係性においての概念を指す。それを意訳して「説明責任」となったようだ。

2が「存在感」これはpresenceという単語を知ってれば一発だろう。3は「支障・妨げ」といった意味、これはよく使われる言葉なので普通に知っていた人も多いのではないだろうか。4は「人的資源,・労働力」これもmanpowerという単語を知ってればすぐに解ってしまうと思う。

それにしても外来語委員会の存在には少々疑問も覚えてしまう。読み手の配慮のために外来語を訳すとはいうが、それ以前に日本には無い価値観を表す言葉はどうするのだろう。例えば問題の最初に取り上げた「アカウンタビリティー」という言葉、この言葉はウォルフレンという教授が日本に持ってきた概念と言われている。そして彼はそれについて次のように語っています。

通常「責任(レスポンシビリティー)」と「アカウンタビリティー」の両方があるものだ。しかし、日本の政治システムはきわめて特殊で、責任はあるが、アカウンタビリティーは欠けているのである。

詳しくは引用元のこちらを読んでいただきたい。「欠けている」、もっと言えば日本にはその概念が無いわけだ、「責任」という一語まとめることによってその欠損は隠されているが。非常に興味深い内容だ、日本の組織のあり方を問題点に書かれているが、それを越えたところで感じるのは外来語を無理矢理日本語に置き換えるという行為の「危うさ」だ。

福沢諭吉や夏目漱石などは日本にない概念を日本語で表現するためにまったく新しい言葉を作ったが、現代では新しい言葉を作ることは難しいと思う。それをカバーする万能の道具が「カタカナ」だろう。まったく新しい概念の言葉もカタカナ英語として組み入れられるという点で、日本語は本当に柔軟な言語だなーと改めて感心する。

もちろん委員会が指摘した外来語の中には、日本語に言い換えた方が解りやすい言葉も沢山ある。それを外来語にわざわざ言い換えるのは教養主義的だし、場合によっては聞き手に不快感を与える危険もあると思う。(そういう自分も「危険」を「リスク」って書きそうになるけど…)しかし言い換えによって意味のすり替えが起こるような言葉はカタカナ英語でその概念と共に理解する方が良いと思う。

それを解らないとするのは読み手側の勉強不足のような気もしなくはない。
◆ 2004.10.07 Thu

「自分」を持つこと

イングリッシュ・パブに飲みに行った。

中は外国人でごった返していて、日本という感じがしない。隣ではイギリス人たちがまるでマシンガンのように話し続けている。久しぶりにギネス・ビールを飲んだ、美味しかった。ギネスは好き嫌いが出るけど僕は大好きだ。つまみはカマンベールチーズのピザとフィッシュ&チップス。大人数で飲むのもいいけど、たまにはこういう小さな飲みもなかなか落ち着けて良いなと思った。ある意味では学生らしくない飲みなんだけど、そこが良い。

社会人になったらこういう小さな飲みも増えて行くのだろうか。やっぱり社会人の飲みとなると上司と飲むことが増えるだろう。上司にやたら気を使う優等生になるのもある意味楽でいいけど、自分はそれよりもまずは「仲良くなっちゃえ」というタイプだと思う。

ちょうど最近大人と会議したり飲んだりする機会があったのだが、実際そこでもそういうスタンスで、事を上手く運んでいったのだった。当の社会人の方もあまり気を使われすぎるのは嫌らしく、「年上の意見だから」と何でも絶対的に受け止める優等生タイプな人間に対してはあまり良い印象が持てないと言っていた。

そういう人間の行動本能の根源は「学校」にあるような気がする。先生の言うことを聞く=良い生徒(正しい行い)」という図式が無意識に叩きこまれてしまっている人が多い気がするのだ。「先生」という存在は社会に置き換えれば「上に立つ人」であり、そういう人間は社会に属する限り形を変えてずっと存在していくわけだ。

僕自身も後輩に何かを教える時には常に「自分を持て」と言っている、それは別に「わがままになれ」ということではない(当たり前だが)。上に立つ人間が言うことにただ従って動きまわるのではなく、それ以前に「自分はどう思うか?」という部分をしっかり持つことだ。もちろん、どうしても従わなければならない状況というのは多い、そこで重要なのは、その始めに「自分」があったかということだと思う。

あるオジさんが言ってた言葉をここに引用しよう。

上司が言うことに「うん、うん」頷いてなんでも聞いたり、やたら気を使って腹を割らなかったりすると、最終的に一番腐っていくのは「上司」なんだよ。そして組織が腐る。

ベタな考え方だが、確かにそうなのかもしれない。でも高校のときは先生と仲良くなって腹割りすぎて、言うことを聞く以前に何も言われなかった覚えがある。でもそこにあった関係はまさしく「人と人」の関係だったと思う、そこに築かれた議論や雑談の繰り返しは本当に充実していた。

先生は元気にやっているだろうか、急に懐かしくなってしまった。
◆ 2004.10.04 Mon

Bjork 「Medulla」

最近ビョークの新譜「Medulla(メダラ)」を聴いている。

『Medulla』

1.Pleasure Is All Mine
2.Show Me Forgiveness
3.Where Is The Line?
4.Vokuro
5.Oll Birtan
6.Who Is It
7.Oceania
8.Submarine
9.Sonnets/Unrealities XI
10.Desired Constellation
11.Ancestors
12.Mouths Cradle
13.Mivikudags
14.Triumph Of A Heart

前作の「Vespertine(ヴェスパタイン)」からは実に三年ぶりのアルバム、ファンにとっては正に待望の一枚といっていいものだったと思う。

『Vespertine』
  
エレクトロニカを駆使したヴェスパタインとは対照的に、今作の人間の口から発せられるビート「ヒューマン・ビート・ボックス」だけをバックトラックに使用したまさに「体温のある音楽」。未だにエレクトロニカ隆盛のミュージックシーンにおいて、こういったアンプラグドなテイストの音楽は新鮮に感じられる。「楽器に出来ることはもう終わった。私は楽器で音楽を作ることに飽きてしまったの」と本人は語っていて、なんか行き着くとこまで行ってるなーという感じ。

タイトルの「Medulla」は直訳すれば「骨髄」などの意味がある。「筋肉や血や肉を感じ取るようなアルバムを作りたかった」という本人の言葉からも解るように、「人間の声」だけの音楽というものに今回は徹底的にこだわったようだ。

前作の流れを求めていた人には賛否両論になるのかもしれない、でもなによりこの大胆なコンセプトそのものは高く評価されるべきだと思う。アルバムを聴いているとまずは人間の声の多様性に驚かされる。Vokuroはまるでコラールのようで宗教的な憧れを感じるようだしWho Is It、Submarine、Triumph Of A Heartなどはエレクトロニカの匂いがします。

あくまで声に執着する姿勢をやりすぎと感じる人もいるだるうし、大衆向けな音楽とはいえない。従って、始めてビョークを聴くという方にはお薦めしない。初めてならヴェスパタインなどのアルバムの方が自然に耳に入ってくるだろう。そのくらいこのアルバムは前衛的である。

因みにアテネ五輪開会式でBjorkが歌っていたのはOceaniaという曲で、このアルバムに収録されています。しかしいきなり開会式に出てきたときは本当に驚いた、開会式自体の演出がイマイチだっただけに。

みなさんはこのアルバムを聴いて何を感じただろう?ちょっとグロテスクな印象もあるが、僕はこういうのも嫌いじゃない、余計な曲も何曲かあるけど。Bjorkの音楽はこれからどこへ向かっていくのだろうか…。
◆ 2004.10.01 Fri

瞬間を刻む文字

考えてみると、こうやって独り言をつらつらと書ける場所があるのというのはなかなか良い。気分転換にもなるし、自分の思ってることを文字にしていくことで、「自分」という存在を客観的に眺めることも出来るからだ。

高校時代は日ごとに書くスペースが大きく取られた手帳を買って、日記のようなものを書いていた。今でもそれが残っていたりして、今読むとちょっと恥ずかしい。昔の彼女と別れてしまった日の記述なんかは印象的だ。

…あれほど失いたいと思った存在が消えた瞬間いとおしくなる、一体自分は何がしたかったのだろう?この別れは本当に必要なものだったのだろうか?いやそれ以前にこの関係は本当に必要なものだったのだろうか、もう何もかも解らなくなりつつある。

なんというか、青春真っ只中という感じである。高校生が背伸びして書いたような、落ち着いた文章も初々しい。当時の自分が感じたやるせない感情を思い出した、その瞬間は高校生の頃の自分に戻っていたような気さえする。

「時間」というのは恐ろしいもので、人間は時間が経つにつれて色々なことを忘れてしまう。もちろんそれによって心の傷を癒したり悪化していた関係を修復したりと、それは「万能の薬」にもなり得るのだが。それも突き詰めれば単なる「忘却」に過ぎないわけだ。

だからこそ人間は「記録」を残そうとする、忘却の代償として。それは写真であったり日記であったり映像であったり…現に僕は高校時代の日記をよんで当時のことを色々思い出したのだ。この日記が無かったらこんなに鮮明に当時のことを思い出すことは無かったと思う。

「人間は変わり続ける生き物。だからこそ、その瞬間の出来事、その瞬間に自分が何を感じ何を思ったかを記録して行きたい。」

僕が文章を書いている一番大きな理由はこれだと思う。言い換えれば「忘れたくない」ということなのであろう。僕に文章を書かせているモノの正体は忘却への恐怖なのかもしれない。そう考えるとちょっと悲しい…でも人間なんてそんなものか。

忘れたくない思い出、あなたはきちんと記録に残していますか?


Template by まるぼろらいと / ホームページ アフィリエイト レンタルサーバー FC2ブログ