◆ 2004.11.29 Mon

猛獣珍獣のいる動物園

最近は暇があれば読書に没頭している。

今読んでいるのは村上龍の初期の作品。彼の著作は初期の作品の方が個人的には好きだ。「限りなく透明に近いブルー」とか、「コインロッカー・ベイビーズ」とか、そこら辺になるだろうか。ひたすら笑いたいなら映画にもなっている「69(Sixty nine)」だ、自伝的小説らしいが登場人物のキャラクターが本当に面白い。

進学校で男が多い学校(或いは男子校)に所属していた人は、「ああこういう奴いたわー」って思う人物が作品中に一人は出てくるんじゃないかと思う。少なくとも僕は沢山出てきた。

自分が通っていた高校も県内トップの進学校で当時はいわゆる男子校だった、そういう環境にはとにかく面白いやつ(言い換えれば危ないやつ)が集まる。僕はそれを「猛獣珍獣のいる動物園」と喩えたりしていた。

僕の前の席にいたAは休み時間は決まってヘッドフォンをしてヒトラーの演説を聴いてたり、ドイツ軍の軍事兵器のデータが載っている本を嬉しそうに眺めていた。時々僕に政治的な思想やドイツ軍の戦車がいかに見かけ騙しだったのかを延々と語りかけてきたりした。彼は慶応大学に進んだ、危ない団体に入ってないか心配だ。

僕の後ろに座っていたI君はいつも独り言をぶつぶつといって授業を無視してなにか違うことをいつもやっていた。「僕は人間が信じられない、だから先生の話も聞きたくない」という筋金入りの捻くれ者。 彼は東京大学に進んだ、今も駒場のキャンパスで独り言を言っているのかもしれない。きっと今でも人間を信じられず、友達は少ないはずだ。

といった感じに僕の前後に座っている人間だけ描写してもここまで濃厚なキャラクターが揃う、今考えると凄い環境だなーって改めて思う。

だが僕はそういった彼らを観念的に愛していたが、現実世界ではひどく嫌い、ネタにしていた覚えがある。「教室」という動物園のような一時的な囲いの中なら別に誰がいても許せるし、それを楽しむこともできる。しかし何年も一緒にいる団体や自分が強く依存する、団体のなかにいたらハッキリ言って困ると思う。

男子校というおかしな「動物園」はあの場所にしかないわけで、檻の外は普通の人間がいるまともな「社会」だからだ。

檻を出てもそれに気付かずに猛獣珍獣のままであり続ける人間は猟友会に撃ち殺されるしかない。檻の外で今日も誰かが社会に適応できず彷徨っている、自分を変えることもできず、仕方なく我儘に生きている。
◆ 2004.11.27 Sat

秋を考える

秋の東京はどこか淋しい。

大地が老成していくような…枯葉が空気中を舞う情景には死のイメージさえ感じさせる、あらゆる生命がじわじわと枯渇して冷たくなっていくような感覚。ふと目に入った一本の街路樹はいつもより孤独を増している。

そんな秋が僕は嫌いじゃない、それは秋のどうしようもなく魅力的な一つの「表情」で僕はどこかでその寂しさを求めている。そう、孤独でない人間は孤独に憧れる。そういうものなのだ。本当に孤独な人間は自分が孤独である事にさえ気付けない。

京都の紅葉はそれとは対照的に艶やかなイメージ。11月の清水寺では恒例のライトアップが始まっている、高台の上から見下ろす照らしだされた紅葉の景観は本当に美しい、眺めていると時間を忘れてしまう程。

美しい紅葉、仮初めの孤独…秋ならではのものだと思う。
◆ 2004.11.26 Fri

楽器を弾く女性

楽器を弾いてる女性の姿は美しい。

どんな子も(といっては失礼だが)それなりに美しく見える。衣装が女性をひときわ美しく見せていると思う、演奏会の衣装というのは例外を除いて全身黒だ。黒は女を美しく演出するし、そのドレッシーな衣装は日常では見られない女性の特別な色気を醸し出しているんだと思う。

…そして男は騙されてしまう、一方的に。

勿論男も日常よりも凛々しく見える、だから団員の日常を知ってる内部の人間が演奏する姿をみていると、日常の姿とその凛々しい姿とのギャップが面白い。僕も楽器弾いてる時は真剣だ。だから他人から観ると弾いてて楽しそうに見えない時もあるらしい。実際はもちろん楽しいのだが。

しかし演奏者を描く画家というのは不思議な事に少ない。写真家はまだ多いほうだが、それでも数はやはり少ない。あんなに美しい被写体は無いと個人的に思っているのだが、勿体無いなと思う。
◆ 2004.11.25 Thu

村上春樹 「アフターダーク」

村上春樹の「アフターダーク」読んでたら、「デニーズ」とか「すかいらーく」とかいうチープな単語が出てきてちょっと意外だった。

ソフィスティケートされたバーに洒落た音楽の描写って感じにいつも気取りがちな作風への批判に対する反抗精神の表れか?とかふと考えたりもしたけど…まぁそれは考えすぎか。村上さんの眼に映る現代っ子の描写がタイムリーで新鮮な作品だと思う。

友人の一人がこの話題に対し興味深いコメントをくれた。

僕も、読後おんなじように感じていたのね。で、先々週くらいかな、柴田先生の翻訳演習という授業に、いきなり村上春樹本人がゲストとして来たのです!まじでビビった。僕の友達の村上ファンは泣きそうになってたくらい。

で、授業がいきなり自由質問タイムになったので、「『アフターダーク』にはデニーズとかマツキヨみたいな、チープな固有名詞がわりと出て来てて、村上さんの作品としては珍しいなと思ったんですけど、何か特別な意図とか、心境の変化とかあったんですか?」と訊いてみたわけ。

で、村上春樹氏の答えて曰く、「僕自身は、これまでの作品の中でセブンイレブンとかは結構出してるから、特に意図的にやったわけではないんだよね。でもそう言われると、デニーズは違和感ないけど、マツキヨは、多少ある(笑)。でもそれにしたって、たぶん地の文では使ってないはずで、セリフなんだよね。だから責任はそういうセリフを言った登場人物にある。僕にはない(笑)。

とはいえ、いままでそういう固有名詞を使う人物を描いてこなかったってことは言えるわけで、つまりは、村上春樹という作家が、いろんな人間を描けるようになった、作家として成長したと(笑)、そういうことじゃないでしょうかね。」と。

意外によく笑う人だなという印象。丁寧に答えてくれたし、個人的には多いに好感度アップ!でした。

村上春樹が講義に来るなんて本当に羨ましい、東大の講義に潜りたくなった。村上ファンが泣きそうになるのもわかる、そりゃ驚くと思う。柴田元幸氏と村上さんとは仲が良い、共著「翻訳夜話」も出ているし。

チープな固有名詞に深い意味はやはりなかったようだ、作品を描く舞台設定上出てきただけという感じ。なんか村上氏の言行を読んでいてその、気さくな感じが伝わってきた。よく笑う人なのか…意外だ。

アフターダークは村上さんの新しい手法が印象的だった、(それだけにファンの評価はやはり分かれるようだが)「僕」に代表される一人称ではなく客観的第三者の視点になったのはかなり意外だったし、それが非常に新鮮だった。長編にしてはあっさりしているが内容は深いと思う。

この作品のラストについてはみなさんはどう思ったのでしょう?「結果」というよりは「過程」の段階のままで終わる感じ。僕はああいうフワーっとした終わり方嫌いじゃない。色々な「予感」を読み手側に残しながら終わる小説は、人によっては最後の最後で「肩透かし」をくらうような感覚を覚えるだろう。でもこれは明らかに意図的だし始まりがあるもの全てに終わりがある必要性なんて本当はないんじゃないかと思う、むしろ僕は終わりの無いものが好きかもしれない。そういう曖昧なものを「曖昧なもの」をとして置いておける柔らかさて素敵だと思う。

最後にこの友人の素敵なコメント載せて締めくくりたいと思う。

『アフターダーク』の視点の設定に関しては、やっぱり話題になったよ。

まとめると、村上さん本人としては、最近、意識的にいろいろな視点から物語を書いているらしい。彼が最終的に書きたいと思ってる『カラマーゾフの兄弟』的な作品に向けての練習(といっては個々の作品に対して失礼だが)という意味があるんだってさ。

僕の個人的な感想としては、第三者の視点ではあるけど、その視点に「われわれ」という名付け方をしてるところが新しいと思った。どことなく、登場人物に対する作者と読者の覗き見的共犯関係を示唆しているようでもあるし。そう考えると、実際に小説を読みながら、「小説を読む(あるいは物語を語る)」ということについても考えさせられる、一粒で二度おいしい的な語りのテクニックと言えるかもしれない。

ラストに関しては、僕も好きというのが一番単純な感想かな。はっきりした結末のある、いわゆる「ジャンル小説」(ミステリとかSFとか)も好きである僕としては、「純文学」のラストは一般に「肩透かし」を食らったようなものといえるような気もするけど、「肩透かし」も悪くないと思うのね。むりやり芸人に例えたら、アンガールズのショートコントなんて全部「肩透かし」だけど、それが面白いわけだし。違うな、これ。全然例えられてないわ。

ま、「終わりの無いもの」「曖昧なもの」が好き、というのは、共感をおぼえる意見だということが言いたかったわけです。


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