◆ 2005.02.28 Mon

フリードリヒ・グルダ

2000年に亡くなったピアニストのフリードリヒ・グルダの没後五年ということで追悼演奏会が行われ芸術劇場でも放送された。その演奏会の中ではグルダ作曲のチェロ協奏曲が取り上げられていた。ソロを弾いてたのはゴーティエ・カプソン。

兄のルノー・カプソンもヴァイオリニストである、ルノーは最近お気に入りの演奏者の一人だ。フランスのエスプリを感じるような透明な音色を出せる数少ないヴァイオリニストだと思う。ベートーヴェンのトリプルコンチェルトの録音でいきなりアルゲリッチとマイスキーと共演してて、二人の大御所相手に見事なソロ聴かせていたのが印象的だった、これから人気が出ていくのではないだろうか。

ちょっと話がそれた、グルダの話に戻そう。

この放送をきっかけにこの曲に興味を持った人が多いようだ。しかしマイナーな作品だけに、CDも入手しにくい。そんなわけで僕の知っている範囲で、グルダのチェロコンのCDを紹介したいと思う。彼のチェロ協奏曲のCDは何枚か出ているが、シフが独奏でグルダ自身が指揮してる演奏をオススメしたい。HMVで比較的簡単に手に入れることができる。



ジャズおけるグルダの活動はジャズ畑ではプレヴィンと並んで全く評価されていないが、クロスオーバースタイルの先駆者と考えれば、やはり彼の活動は評価するべきかもしれない。しかし、彼の演奏するベートーヴェンやモーツァルトの演奏(中でも協奏曲が絶品!)を聴いてると、これが「グルダ、そんな事してる場合じゃないだろ!」と言いたくなるくらいの名演だったりする。

グルダが死んでからもう5年も経ってしまった…時の流れは早い。
◆ 2005.02.23 Wed

若気の至り

「結婚しよう。」と男はつい軽々しく言ってしまう。柔らかい現実と不確かな未来の狭間で言ってしまう、でもそれはとても危険なことなんじゃないかと思った。

僕もかつて「信念」を持っていた、「いつか一緒になる…」と。でもそれ自体相手に言わせたら「無理してる」になるのかもしれない、何故ならその信念は現実からは剥離した空間をプカプカと浮かぶ「根無し草」だからだ。その「根無し草」を必死に根付かせようとする行為自体、頑張って(無理して)しまっているのだと気付いた。

「信念」など意固地になって持つ必要はなかったのだ。時期が来たらその時には一緒になれば良いのだし、「結婚」という形に拘り過ぎる必要もないのだと思う。

昔はそれにもの凄く拘っていたけど、それは「早く家族が欲しい」と思ってただけだったと思う、複雑な家庭環境も手伝い、新しい家庭を作らなければと僕は焦っていた。しかしそれは単なる「エゴ」だった。

相手を現在進行形で愛していること、それだけで良かったんだと思う。肩の力を抜いて「現実」を歩いていくことが重要なのだろう。
◆ 2005.02.20 Sun

まろまろだ〜いすき

N響アワーがたまたまやっていて久しぶりに見た。

マーラーの未完の交響曲第十番のアダージョの映像が流れていた。98年に収録された演奏だったと思う。冒頭にヴィオラのみの旋律に始まって、曲中何度もヴィオラのみの旋律が出てくるのだが。酷かった…。音程が悪すぎる、プロとは思えないくらい悪かった。ニュアンスも揃ってなくてポルタメントもズレズレ、お仕事とはいえ、もう少し本気でやってもらいたいなぁ。

N響には個人的にお世話になった先生が沢山いて、(といってもその大半はヴァイオリン奏者なのだが)こういうことを言うのは少し気が引けるのだけども、一人の聴衆として率直に思ったので。書いてみた。プロの演奏を私情挟んで聴くのはおかしいと思うから。「N響は最近上手くなった」という人は多いんだけど、こういうの聴くと「んなこたねぇだろー」と思ってしまう。

でもやっぱり篠崎先生は偉大。先生の音には華がありウィーン的なものを感じる。別格だ。自作のサイトのタイトルにもビックリだ。

「まろまろ だ〜いすき」

マロさんの面白いインタビューを見つけた。学校時代のエピソードというのがぶっ飛んでて素敵、学校で賭場(笑)開いたり、タクシーで学校行ったり。 もこのインタビューの一番面白いのはタイトルが「篠崎紀史さんへのインタビュー」となっていること。正しくは史紀です、一行目から間違ってるのが素敵だ。

記事の中で一番印象的だった発言はこれ↓。

Q:イヤな感じの子とかはどの様におつき合いされてみえたのでしょうか?

A:とにかく相手が嫌だと思ったらそれ以上に近付く。よく話をしないから判らない。相手に近づいて話すれば良い所もよく判ってくる。暴力で喋りたい人もいるからその人には暴力で・・・只何もしなかったら相手も答えてくれない。相手が求めている手段で応える。

さすがはヤ●ザの孫ですね、ヤク●の心意気を感じます。
◆ 2005.02.16 Wed

FUDGEのすすめ

友達に「おすすめの女性雑誌ない?」と訊かれたので、女がそんなこと男に聞くなよ…(笑)とツッコミつつ最近読んでいるオススメの雑誌を紹介。

僕が毎月欠かさず女性雑誌をチェックする趣味があるのは、ここにも何度か書いたことがあるが、最近好きで、買ってまで読んでいる雑誌がある。その雑誌とは「FUDGE(ファッジ)」、「FUDGEはれっきとした女性ファッション誌です」という当たり前のこと言ってるけど意味深なコピーが印象的な雑誌。FUDGEは特集記事が毎回面白くい。

色々な雑誌を読んでると、何か読者の顔色を見ながら、記事を書いているような、或いは大衆に迎合しようという慎重さが感じられる雑誌のなんと多いことか。そんな中でFUDGEは、独自のスタイルを持っていて、一味違った魅力と個性を持つ雑誌の一つだと思う。「装苑」も一時期読んでたが、ややビジュアル色が強くゴスロリまで行っちゃうともうついていけない。結局、FUDGEは僕の趣味に合うということだろう。

3月号の特集も面白かった、特に「白い服でストイックなスタイルの着こなしを追求する」という試みが良い。普通にファッション「情報誌」としてもセンスを感じる、今月号ではマルタン・マルジェラの特集(可愛い!)もあるし、代官山に絞ったショップ紹介も有名な店ばかりでなく隠れ家的なショップも紹介していて参考になる。音楽記事もtortoiseのインタビュー組んでたりしてニクい。

書ききれない…とにかく読んでみて欲しい。おすすめ。
◆ 2005.02.13 Sun

「24 TWENTY FOUR」

なんとなく「24 TWENTY FOUR」シリーズを観始めた。ハマっている友人が沢山いて気になってたドラマ、でも自分もハマると困るからずっと敬遠していた。何せシーズン3まで観るとなると結構長いのである。しかし。こないだレンタルビデオ屋に行ったら、ある棚の前で僕はなんとなく足を止めてしまった。

右にはブームを巻き起こした「冬のソナタ」シリーズ、左には「TWENTY FOUR」シリーズがズラリと並ぶ。いつも通り過ぎているこの棚が今日は無性に気になった、一瞬「冬のソナタ」を借りて現代を生きる日本人女性の心を鷲掴みにした作品を堪能しようかとも考えたが、次の瞬間、ヨン様が歯茎をむき出しにして笑う顔が浮かび、なんだか一気に観る気を失ってしまった。

「24 TWENTY FOUR」シリーズ面白い、ハマった。ただドキドキがいっぺんに押し寄せてくる感じがあって、観ていて疲れる。でも先が気になってまた観てしまう。リアルタイムでめまぐるしく状況や人物関係が変化していくから気を抜く暇がまったくない。あうあう。脚本のクオリティーがとても高く、海外TVドラマもなめられないもんだな、と改めて実感させられた。

バウアー役のキーファー・サザーランドがカッコイイ、寝ず食わずの極限状態で24時間動きっぱなし。凄い。キム役のエリシャ・カスバートは「ラブ・アクチュアリー」にも出てた女優さん、でもピンと来ない人が多いかと。“アメリカでモテたい男”コリンがミルウォーキーに行って、バーで出会うアメリカ女性の一人、といえばわかると思う。要するにチョイ役というやつ。やっぱり可愛かった。テリー役のレスリー・ホープがピアニストのピリスに見えてしかたがない…そう思うのは僕だけだろうか?

まだ観てない方には、暇な時に観ることをオススメしたい。
◆ 2005.02.12 Sat

ピーコさん

友人から突然依頼が入り、ある原稿を書いていた。

途中どうにも疲れてしまい、まったく進まなくなる。仕方なく近所のカフェに行って気分転換することに、コーヒーを飲みながら読書をしてマッタリしていた。隣には近所の某女子校の高校生3人が座っていて、恋愛話に花を咲かせている。よくある光景だった。

そんな時、その中の一人の子が話しかけてきた。「ねぇ、前に会ったよね?」始めはまさか自分に向かって話していると思わなかったので驚いた。しかしよく見ると確かにどこかで会ったことのある顔である、そして一気に記憶が蘇った。あぁ!

僕:「ずっと前に駅で話したよね、覚えてる。」
女:「そうそうカラオケ誘ったのに来なかったし。」

けっこう前の話だが、僕が駅前で煙草を吸いながらボケーッと座り込んでた時に、たまたま隣に座った女子高生に話しかけられて世間話をしたことがある。話しているうちに相手はどんどん馴れ馴れしくなり、「今暇だったりするの?カラオケ行こうよー。」と誘われる。

しかし当時の僕は非常に捻くれていて「金の無い女子高生と遊んでもつまらねえ!」と考えていたので。「やだよ。」と普通に断ってしまった。その子とは、そこで話したっきり会うこともなくて、殆ど忘れかけていたが、また会うとは思わなかった。

まぁそんなわけで、いつの間にか僕もその三人の会話に交ざって恋愛話に花を咲かせた。なんというか…こいつら表面的には大人ぶっているが、恋愛話なんかを聞いてると中身の方はやっぱ子供だ。

人生達観してそうな雰囲気を出してても、一枚皮を剥いだらものすごく純情で不安に満ちた若者のハートがちゃんとあった。そういうのに気付いて、ふてぶてしくて少しだけウザい存在だった女子高生に少し親近感が湧いた。

オジサンの遺言として3人に「ギャルにはなるな。」と厳しく忠告しておいた。ギャルになっちゃうと頭の悪い男が寄ってきて、ロクな人生にならないと。

素敵な女性になるための方法論として、オススメの女性雑誌とかブランドとかを色々と教えてあげたら。「なんでくわしいのよ!」と厳しくつっこまれた。「ほっといてよ…というか俺が特別詳しいんじゃなくてお前らが勉強不足なんだよ。」と反撃しておいた。

そして「ピーコさん」というあだ名を付けられた。

女子高生に「ピーコさん」とか話しかけられている男がいたら、多分それは僕か本物のピーコだ。
◆ 2005.02.11 Fri

小学校の作文集

こないだ実家で小学校の作文集をみつけた。

何年の時に書いたものなのかわからないが、名前を漢字で書いていたので恐らく4、5年生くらいの文章だろう、と母は分析していた。なかなか面白い文章が色々とあったので、ここに抜粋という形で紹介していきたいと思う。

まずは「一学期の思い出と反省」の冒頭。

ぼくの一学期のめあては、
集団登校におくれないことでした。
これは、あまり守れませんでした。
二つ目は先生の話を聞くことでした、
これも完全に守られませんでした。
二学期こそは守りたいです。

自分で立てためあてひとつも守れてない自分、正直に守れなかったと言っちゃう心は純粋だ。同時にこの頃から寝坊癖に悩んでいたという事実が浮上してきた、「あまり守れない」という表現は言い換えれば「殆ど守れなかった」である。

次は読書感想文から「麦畑を読んで」の冒頭。

ぼくは「麦畑」を読んで、作者は一体
何を読者に伝えたいのかぎもんに思った。

一行目から、作者に対して喧嘩を売っている。「伝えたいことが抽象的過ぎてわからない」ということを言っているのだろう。でも小学校中〜高学年にかけて読まされる作品というのは今読み返してみると結構深いテーマが織り込まれていて、本当に抽象的な文章が多い。「ぼく」の見解は一貫していてこの感想文は次のようなくだりで締めくくられている。

ぼくはなんとなく作者の言いたいことが
わかるような気がした。

「なんとなく」という表現は冒頭の書き出しを踏まえて読むと皮肉のようにも聞こえる。そんなことは無いと思うが、大人の目で読むとそう読めてしまう文章を書いてるのが素敵だ。

次は「冬休みの反省と三学期の抱負」の中から。

元旦の次の日から宿題をほんかくてきに
進めました。その中で反省することは、
自由勉強が少なかったことです。
でもやらないよりはずっといいと思います。

「やらないよりはずっといいと思います」という言葉を最後に置いていることから小学生にして自分をフォローする術を獲得していたようだ。周りにはもっと出来ないお友達がいる、という考え方はこの当時実際に持っていたらしく、テストが悪かった時に僕はお母さんに向かって、「ぼくより出来ない人沢山いるから大丈夫だよ」と言っていたらしい、達観してる感じがイイ。それに対する先生のコメントもテキトーで良い。

年明け後のちょっと違うたくしくんに期待しています。

「ちょっと違うたくしくん」ってなんか危ない表現だ、誤解して狂った子供にならなくて本当によかった。というかそんな曖昧な期待をされても困る。多分この筆跡は5年生の担任だったやすこ先生、先生は25歳くらいの若い女教師で色っぽかった。正直ちょっと恋してた、当時の僕は先生のことを「やすこちゃん」と呼び「結婚しよう」とも言っていた。今考えるとあれは半分本気だった。若かった。

最後に「小さな旅」という文章の冒頭のくだり。

ぼくは、小さな雑貨屋の前で、自転車を急停車した。
なぜなら、季節外れの麦わらぼうしを見つけたからだった。
風の冷たい日のことだった。

物語を創作するという授業で書いた文らしい。冒頭の書き出しは村上春樹のような雰囲気、稚拙な文章のなかでこの文章は大人っぽい。自分で「好きで」書いた時の文章というのは、やはり違うんだと思う。小学生の脳をフルに使って書いている感じがなんだかみずみずしかった。

そういえば小学校5年の時、僕がドフトエフスキーの「罪と罰」を真剣な顔で黙々と読んでいる姿を母が見つけて驚いた、というエピソードを聞いたことがある。この頃に僕の文体が急に大人びた背景には、そういった「背伸び読書」の影響があったに違いない。「罪と罰」は登場人物が多すぎて途中でわからなくなった覚えがある、小学生にドフトエフスキーは早すぎたと思う。背伸びしたい時期だったんだな。
◆ 2005.02.09 Wed

良い子人生

渋谷に行ったら警察が20人くらいいて興奮した。

昔から警察見ると何故か逃げようとする癖がある、小さい頃はちょくちょく警察にお世話になっていたから。誰に言ってもあまり本気で信じてもらえないが、中学2年の時までほんの少しグレてしまっていた。

といっても僕の「グレる」なんて可愛いものである。髪を染め、タバコを吸い、スケボーやり、危ない先輩とつるむ…極めて基本に忠実なグレかたでした。むしろ、小学校時代に店でお菓子万引きしたことの方がよっぽど悪質な行為だったと思う。おばちゃんゴメン。

僕の場合「一度くらい不良になってみたい」というアホな好奇心が強かっただけなんだと思う。その直後に急にそんな自分が嫌になってきて僕は生徒会長に立候補することになる、これが人生の転機だった。ここから僕の「良い子人生」が始まった。

生徒会長になってからは逆に「良い子」を極めることにした。まず週三回学習塾に通う。中学校の勉強なんてやれば出来るものから、成績はすぐに上がった。模試で県10番以内に入った時は地元の学力レヴェルの低さを中学生なりに実感した。数学苦手でもランクインできちゃうという実態。あそこはもっと教育力入れた方が良いと思う。本当に。

生徒会長になるというのは「良い子になりたい」という願いを実現する手っ取り早い方法だった。いわゆる「生徒会長」という存在に皆が期待する「人間」になりきってしまえば、それでいいわけだ。

他者の視点からみた個性は例えるなら「仮面」のようなもので、自分の意志によってそれはいかようにも再構築できる。必要なのは自分を客観的に見つめる視点と、「自分は…だ」と思い込める一時的な気力だけである。

なんだか卑屈な話になってきたので話を戻そう。

まぁ男というのは誰しも「昔はワルだったよ…」と過去を汚し気味に語り美化したがるものである、その大半はそんなことはなくて「良い子ちゃん」であることが多い、特に都会育ちで大学にちゃんと進学してるような人間はそうだ。むしろおぼっちゃんの部類に入る人間もけっこう多い。

しかい田舎には絵に書いたような不良が本当にいる。(千葉県にもけっこういた、千葉もやっぱり田舎だと思う。)しかもワルの中に、進学校行く頭の良い人間もいる。僕の通っていた高校も県内トップの進学校だったが、絵に描いたようなヤンキーがいっぱいいた。逮捕者も出た、しかもタクシー強盗。

同じことが恋愛にもいえて「昔は色々(恋愛)あったよ」と言いたがる男も沢山いる、でもそんなこと言ってる男は大抵女性経験が少ない。本当に色々あった人は多くを語らない、語れないくらい現実はシビアなものだ。

誰でも元カノのように他人に話してしまう人というのは結構多くて、話しているとボロが出てきて楽しい(陰険)。実際に付き合った女性より元カノの人数の方が多い…みたいな人間だ。昔の恋愛を「勲章」にしてはいけない、結局のところ元カノの数だけ女の子を悲しませてるわけだ。勲章どころかその逆だと思う。

「昔はなーんにもなかった。平和そのもの。」

これからは恋愛話にはそういうスタンスで行こうと思う。
◆ 2005.02.06 Sun

海に還る

鎌倉にドライブに行って帰りに由比ヶ浜を通りかかった。海は良い。日も殆ど落ちかかっていて暗かったけど、それはそれで独特のセンチメンタリズムが漂っていて良い雰囲気だった。青春だ。最近海なんて行ってなかった、だから心が渇いてしまっているんだと気付いた。

海辺を歩いて、波の音と潮風を五感で感じる時、僕の脳裏には「海に還る」というフレーズが浮かぶ。海の波長はとても心地よく、自分の「心」の中の柔らかい部分がそれに共鳴してるのがわかる。

辛い時、落ち込んでいる時は、海に行くといい。そういう時の人間の「心の部屋」は、極端に狭く、常に圧力を感じるような精神状態になっている。そうなってしまうと、何を考えることができなくなってしまうし、そのストレスに潰されて今にも圧死しそうな感覚に陥ってしまうものだ。

そんな時に海に行くと、心の部屋の壁が無くなり。今まで自分を苦しめていた圧力を感じなくなる。それはまるで背中に翼が生えたような感覚で、本当に体が軽くなる。そしてまた現実の世界に戻っていけるのだ、現に僕はとんでもない失敗をやらかしたり。もの凄く大きな問題に直面した時に何度も衝動的に海に行き、そして救われたのだ。

人生の壁にぶち当たったら、携帯の電源を切って、海に行けば良い。「ただの現実逃避」といってしまえばそれまでだが、ちゃんと「現実」に帰ってくるのだ。ただ物事が一気に押し寄せて心の部屋が窮屈になってもそれに絶え続けながら頑張ったりしたら、人間の精神は壊れてしまう、そして何もできなくなる。僕が昔愛していた女性も、そこでずっと頑張りすぎて壊れてしまった(今考えるとあれは鬱だったと思う)。今でも後悔している、あの人を海に連れて行きたかった。

…なんか暗い話になってきたのでやめる。
◆ 2005.02.01 Tue

猫っぽい女の子

猫っぽい女の子が好きだ。

というのは別に「〜だニャー」とか言っちゃう女性を指しているわけではなく、猫的な雰囲気と生活スタイルをもっている女性のことである。猫は犬とよく比較され、対人への依存度が低く孤独を好む…なんて世間ではいわれている。

ベタベタしてくる女性が嫌ということはないけど、「24時間繋がっていたい…」みたいな女性はちょっと困る。一人の時間、空間…まとめていえば、「一人の世界」をお互いに持った方が健全だと僕は思う。

とかいいつつ自分の正直なところを突き詰めてみると僕はかなり依存するし、愛する人に適度に依存されたいという欲求も持っている。僕は「依存度」どうこうより、独立した形で「自分の世界」を持っているかどうか?ということを最も重要視しているのかもしれない。

それは何も精神的なものばかりというわけではなく、例えば衣服や髪型などの総合的なスタイルも含む。「私は〜が好き」とか「私は〜したい」とかそういう自分の個性を確立している女性は魅力的だと思う。「そんなの誰だってあるでしょ。」と思う人もいるだろう。しかし実際の女性を観ているとそうでもないのだ。

付き合ったとたんに付き合っている相手の趣味に染まり服装や髪型などが急激に変わっていく女性を誰しも一度は目にしたことがあるのではないだろうか。自分もどちらかというと高校時代は付き合っている相手を無意識に自分色に染めてしまう人間だったから、それについてをあれこれ批判する気は毛頭無いが、最近はそういうのを好まなくなってきた。というか嫌いだ。

「自分の世界」を持っている人はそのオリジナルな世界の中で亜流ではない独自のスタイルを編み出していて、僕はそういう人と接する時に「孤高の美しさ」を感じたり、人と付き合うことの面白さ、魅力を心の底から感じる。

それは「自分に無いものを他人に求める」という一般的な心理も働いていると思う。そして自分の個性を守る人の多くは、僕の個性に殆ど干渉してこないしそれぞれにある「違い」を楽しむ術を知っている。そう考えると他人の個性を犯さないことで自分の個性を守るという側面もあるだろう。

自分の世界をお互いに依存することなく持っていると、そこには当然「秘密」の部分が存在していくと思う。そういうものを(ストレートにはみえなくても)長く付き合って行く中でお互いに密かに確かに理解していくというプロセスに僕はある種の「喜び」のようなものを感じるのだ。昔書いた「秘密のない女はつまらない」という記述に込められた価値観もそれに通ずるものがある。

確かここまで語ってきたことも僕のいう「猫的な」の一要素ではあるが、それだけでは説明不足な感じがする。考えてみた末、それは精神的なものでなく猫そのものの姿、動きの中にあるのではないだろうかという結論に達した。猫の動きは雄雌に関わらず女性的なしなやかさを持っている。女性の動的な色香に僕はいつも猫的なものを感じるのだ。

キャットウーマンがいてもドックウーマンがいないのに妙に納得。


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