◆ 2005.03.30 Wed
昔の手紙
僕は昔の手紙が捨てられない病にかかっている。
本棚の一角にはひっそりと今まで貰った手紙が全て残っている、古いものでは中学時代に後輩に貰ったラブレターなんかもあったりして、こうやって今改めて読み返すと、懐かしくて照れくさくて素敵だ。最後に「〜日〜時に体育館の裏に来てください。」とか書いてあってドキドキした、体育館の裏って…。基本に忠実な恋愛をちゃんとしていて素敵だと思う。
手紙の大半は高校時代に送られてきたものである。高校選抜オーケストラに参加したのをきっかけに全国の熱い音楽仲間達と手紙をやり取りしていた。あの時代はそれほど携帯メールが浸透していなくて、電話と手紙が連絡をとる二大ツールとなっていた。数えてみたら実に100通もあって我ながら驚いた、その一つ一つを読み返すと当時の僕の人物像が少しずつ見えてきて結構これが面白かったりする。
遠距離恋愛していた子と交わした手紙を読んでいて気付いたのだが、僕は自分の方から「淋しい」とか「会いたい」とか滅多に言わない人間だったらしい。本当はそんなことはなくてもの凄く淋しがり屋で、24時間いつでも会いたいぜー!と思っていたのだが、それを相手に伝えることができなかったようである。恥ずかしいというのもあったし、そういうことを言って相手に心配をかけてはいけないと思っていたのだろう。変に大人ぶった態度を見せようと必死になる自分、思春期にありがちな捻くれた根性である。
もちろん、ある程度の「自己抑制」は必要であるが、まったく自分の欲求を相手に見せないのは良くない。実際に「私だけ寂しがってるような気がして…」と相手は不安にさせて、しまいには「私って子供」と相手が自信を責めるようになり事態は悪化していく。そのあまりにもつまらない過ちを何度も繰り返して、僕はいくつかの恋愛を理不尽に終わらせてきた。
今考えると「なんて馬鹿だったんだ」と思ってしまうし、昔の自分がそんな奴だったのかと思うと恥ずかしくなる。でもそういう経験を通じて辛い思いをしたからこそ、変われたというのも事実である。それが人生なのか…あの頃に比べて今は欲望に素直に生きているし、過度の自己抑制に走ることもなくなったと思う。
「巨人」、「死霊」、「彗星」などの作品で知られている、小説家ジャン・パウル(*1)の言葉をふと思い出した。「経験する」ということはある種、恐ろしいことけれども経験を知らないことはもっと恐ろしいことだと思う。僕の周りにも良い歳してものすごくある部分だけが欠落している人間がたまにいる。知らないって怖い。そんな他人事の様に言いつつ僕自身も何年か後には過去の自分、つまり今の自分を「なんて馬鹿だったんだ」と言っているのだろうか。そう思うとなんだかやりきれない。
結局、自分が何を知らないかを「知らない」ことが怖いのだ。
本棚の一角にはひっそりと今まで貰った手紙が全て残っている、古いものでは中学時代に後輩に貰ったラブレターなんかもあったりして、こうやって今改めて読み返すと、懐かしくて照れくさくて素敵だ。最後に「〜日〜時に体育館の裏に来てください。」とか書いてあってドキドキした、体育館の裏って…。基本に忠実な恋愛をちゃんとしていて素敵だと思う。
手紙の大半は高校時代に送られてきたものである。高校選抜オーケストラに参加したのをきっかけに全国の熱い音楽仲間達と手紙をやり取りしていた。あの時代はそれほど携帯メールが浸透していなくて、電話と手紙が連絡をとる二大ツールとなっていた。数えてみたら実に100通もあって我ながら驚いた、その一つ一つを読み返すと当時の僕の人物像が少しずつ見えてきて結構これが面白かったりする。
遠距離恋愛していた子と交わした手紙を読んでいて気付いたのだが、僕は自分の方から「淋しい」とか「会いたい」とか滅多に言わない人間だったらしい。本当はそんなことはなくてもの凄く淋しがり屋で、24時間いつでも会いたいぜー!と思っていたのだが、それを相手に伝えることができなかったようである。恥ずかしいというのもあったし、そういうことを言って相手に心配をかけてはいけないと思っていたのだろう。変に大人ぶった態度を見せようと必死になる自分、思春期にありがちな捻くれた根性である。
もちろん、ある程度の「自己抑制」は必要であるが、まったく自分の欲求を相手に見せないのは良くない。実際に「私だけ寂しがってるような気がして…」と相手は不安にさせて、しまいには「私って子供」と相手が自信を責めるようになり事態は悪化していく。そのあまりにもつまらない過ちを何度も繰り返して、僕はいくつかの恋愛を理不尽に終わらせてきた。
今考えると「なんて馬鹿だったんだ」と思ってしまうし、昔の自分がそんな奴だったのかと思うと恥ずかしくなる。でもそういう経験を通じて辛い思いをしたからこそ、変われたというのも事実である。それが人生なのか…あの頃に比べて今は欲望に素直に生きているし、過度の自己抑制に走ることもなくなったと思う。
経験は良い薬であるが、病気が治ったあとでしか手に入らない。
「巨人」、「死霊」、「彗星」などの作品で知られている、小説家ジャン・パウル(*1)の言葉をふと思い出した。「経験する」ということはある種、恐ろしいことけれども経験を知らないことはもっと恐ろしいことだと思う。僕の周りにも良い歳してものすごくある部分だけが欠落している人間がたまにいる。知らないって怖い。そんな他人事の様に言いつつ僕自身も何年か後には過去の自分、つまり今の自分を「なんて馬鹿だったんだ」と言っているのだろうか。そう思うとなんだかやりきれない。
結局、自分が何を知らないかを「知らない」ことが怖いのだ。
(*1)ジャン・パウルの作品を読んだことがない人でも、マーラーの交響曲第一番の副題である《巨人》の由来となった小説の作者といえばわかるだろう。
◆ 2005.03.28 Mon
音楽とファッション
中学から高校にかけてGreen Dayが好きだった。
この話をするとみんなに「意外!」と驚かれる。一番好きだったアルバムは「Nimrod」だった。世評は低かったがこのバンドの色々な方向性が見えるというか、とにかく多彩な印象を受けた。「Dookie」が登場した時ほどの衝撃はないけども、いまだに聴き返すと「Nimrod」が一番良いと感じる。
自分にとっては既に過去のバンドになりつつあるこのGreen Dayだが、新作「American Idiot」が爆発的に売れているのを見ていると凄いなー、と素直に感心してしまう。「メロコア」のバンドの中では常に際立った存在として長年君臨し続けているのは本当に驚く。
もしかすると「メロコア」という和製英語のジャンルが浸透していくきっかけとなったのはGreen Dayの登場だったような気がする。今作のタイトルを直訳すると「おバカなアメリカ人」といったところだろうか。思いっきりブッシュのことをさしているような気が。アイロニックなタイトルだ。
昔Green Dayライブに行った時は僕もまだ純朴な少年だったので、客層にビビッてた覚えがある。自分もタトゥーいれて、ピアス開けて思いっきりパンキッシュな格好しなきゃいけないのかな…と本気で悩んだほどである。あの頃は若かった。
今考えるとradioheadなんかの客層とはだいぶ違う。やっぱり音楽は「ファッション」を形作る要素になるのかもしれない。別にradioheadのファンがみんなthomの真似してMartin Margiela着てるとかそういうことではなくて、むしろファッションというよりは人間の持つ「雰囲気」がみんな似ているのかも。
とかいいつつ客層なんてどのバンドも一緒くたに出来ないというのが本当だ。多分当時幼かった僕は、Green Dayのライブ会場でイカツイ兄さん&姉さんにばかり目が行っていたんだと思う。田舎モノ万歳!
この話をするとみんなに「意外!」と驚かれる。一番好きだったアルバムは「Nimrod」だった。世評は低かったがこのバンドの色々な方向性が見えるというか、とにかく多彩な印象を受けた。「Dookie」が登場した時ほどの衝撃はないけども、いまだに聴き返すと「Nimrod」が一番良いと感じる。
自分にとっては既に過去のバンドになりつつあるこのGreen Dayだが、新作「American Idiot」が爆発的に売れているのを見ていると凄いなー、と素直に感心してしまう。「メロコア」のバンドの中では常に際立った存在として長年君臨し続けているのは本当に驚く。
もしかすると「メロコア」という和製英語のジャンルが浸透していくきっかけとなったのはGreen Dayの登場だったような気がする。今作のタイトルを直訳すると「おバカなアメリカ人」といったところだろうか。思いっきりブッシュのことをさしているような気が。アイロニックなタイトルだ。
昔Green Dayライブに行った時は僕もまだ純朴な少年だったので、客層にビビッてた覚えがある。自分もタトゥーいれて、ピアス開けて思いっきりパンキッシュな格好しなきゃいけないのかな…と本気で悩んだほどである。あの頃は若かった。
今考えるとradioheadなんかの客層とはだいぶ違う。やっぱり音楽は「ファッション」を形作る要素になるのかもしれない。別にradioheadのファンがみんなthomの真似してMartin Margiela着てるとかそういうことではなくて、むしろファッションというよりは人間の持つ「雰囲気」がみんな似ているのかも。
とかいいつつ客層なんてどのバンドも一緒くたに出来ないというのが本当だ。多分当時幼かった僕は、Green Dayのライブ会場でイカツイ兄さん&姉さんにばかり目が行っていたんだと思う。田舎モノ万歳!
◆ 2005.03.27 Sun
醜さと美しさ
電車の中で目の前に親子連れが座ってきた。
二人で賃貸物件の本を読みながらあれこれ話している。肌が白く純朴そうな少女の話す言葉には少し訛りがある、おそらく4月から大学生になり上京しているのだろう。その初々しく眩しい姿に昔の自分が少しだけ重なった。新しい生活への期待と不安で胸が一杯だったあの頃…
少女は新しい生活の中で沢山の人に出会っていくだろう、新しい恋をみつけ、セックスを知り、失恋の涙に暮れる。今よりも少しだけ純朴さを失って人間の醜さを知るだろう、でもその代償に今以上に魅力的な女性になっていくだろう。
「醜さ」を知らない女性は真に美しくはなれないと思う。つまらない恋愛をし人を傷つけ、そして傷つけられる。いくつかの嘘をつき、いくつかの嘘に振り回される。そういった様々な経験を潜り抜けた女性というのは、人間の「醜さ」と「美しさ」の両面を深く知っている。
醜さを知らぬ女性の美しさというものは表面的で浅い。醜さを重ねることで心の柔肌が腐り、朽ち果てていく、その腐り切った肉を削ぎ落とした後に現れる美しさは、比べるものの無いくらい魅力的なものとなるだろう。
…と電車で親子を見てそんな妄想をするアホがここに一人。
二人で賃貸物件の本を読みながらあれこれ話している。肌が白く純朴そうな少女の話す言葉には少し訛りがある、おそらく4月から大学生になり上京しているのだろう。その初々しく眩しい姿に昔の自分が少しだけ重なった。新しい生活への期待と不安で胸が一杯だったあの頃…
少女は新しい生活の中で沢山の人に出会っていくだろう、新しい恋をみつけ、セックスを知り、失恋の涙に暮れる。今よりも少しだけ純朴さを失って人間の醜さを知るだろう、でもその代償に今以上に魅力的な女性になっていくだろう。
「醜さ」を知らない女性は真に美しくはなれないと思う。つまらない恋愛をし人を傷つけ、そして傷つけられる。いくつかの嘘をつき、いくつかの嘘に振り回される。そういった様々な経験を潜り抜けた女性というのは、人間の「醜さ」と「美しさ」の両面を深く知っている。
醜さを知らぬ女性の美しさというものは表面的で浅い。醜さを重ねることで心の柔肌が腐り、朽ち果てていく、その腐り切った肉を削ぎ落とした後に現れる美しさは、比べるものの無いくらい魅力的なものとなるだろう。
…と電車で親子を見てそんな妄想をするアホがここに一人。
◆ 2005.03.26 Sat
春の甘美な追憶
春はセンチメンタルになりやすい。
自分の周りでカップルがいとも容易く別れていく、それだけでなく、逆に思い出に耽溺する人もいる。一方で音信不通だった昔の女から突然連絡が来るという不思議な現象が起きている。
友人と話してみたら、僕だけでなく友人にも全く同じ現象が起きていた。こういう節目の時期になると人は過去を振り返り、甘い追憶に身を浸したくなるのかもしれない。
誰しもかつて愛した人、愛された人がいるだろう。そこには当然、様々な過去があり思い出がある。昔の恋人というのはたとえ今は友達だとしても、やはりなにか特別な存在であり続けるのだと思う。
愛した(愛された)自分というのは関係を持った人の数だけ自分の中に個別に存在しているようだ。その各々の「自分」というものはもしかすると、関係を断った今でも微かに自分の中に残っているのかもしれない。それが恋愛というものか…。
思い出は時と共に自分にとって辛いものになる、美しい思い出は時が経つ程に消えていくどころか輝きを増したりする。そこが思い出の恐ろしさだ。そしてそういった思い出のなかでも最も根深く残るのは特定の出来事ではなく抽象的な感覚だ。
キスした記憶、抱かれた記憶…そういう本能的に求め合った記憶というのは鮮烈に刻まれていて、そういう「築かれていた関係」への甘美な追憶こそ最も悩ましく、時を越えて衝動的に湧き上がるかつて愛し合った人への感情の源といって良い。
今日もどこかで誰かが甘美な追憶に身を浸している。
自分の周りでカップルがいとも容易く別れていく、それだけでなく、逆に思い出に耽溺する人もいる。一方で音信不通だった昔の女から突然連絡が来るという不思議な現象が起きている。
友人と話してみたら、僕だけでなく友人にも全く同じ現象が起きていた。こういう節目の時期になると人は過去を振り返り、甘い追憶に身を浸したくなるのかもしれない。
誰しもかつて愛した人、愛された人がいるだろう。そこには当然、様々な過去があり思い出がある。昔の恋人というのはたとえ今は友達だとしても、やはりなにか特別な存在であり続けるのだと思う。
愛した(愛された)自分というのは関係を持った人の数だけ自分の中に個別に存在しているようだ。その各々の「自分」というものはもしかすると、関係を断った今でも微かに自分の中に残っているのかもしれない。それが恋愛というものか…。
思い出は時と共に自分にとって辛いものになる、美しい思い出は時が経つ程に消えていくどころか輝きを増したりする。そこが思い出の恐ろしさだ。そしてそういった思い出のなかでも最も根深く残るのは特定の出来事ではなく抽象的な感覚だ。
キスした記憶、抱かれた記憶…そういう本能的に求め合った記憶というのは鮮烈に刻まれていて、そういう「築かれていた関係」への甘美な追憶こそ最も悩ましく、時を越えて衝動的に湧き上がるかつて愛し合った人への感情の源といって良い。
今日もどこかで誰かが甘美な追憶に身を浸している。
◆ 2005.03.22 Tue
空気を鳴らす
ホールでヴァイオリンを弾いてきた。
僕の叔父は某コンサートホールの館長をしている。昔は東京の某プロオケのマネージャーをやっていた人で、叔父さんのおかげで僕は若くしてギル・シャハムやアファナシェフなどの一流の演奏家たちの生の音楽に触れることができたのだった。
叔父の厚意で特別に誰もいないホールで反響板を出してもらい演奏することができた。ホールで弾いて気付くことは「響き」の大切さ。全身の力を抜いてフワッと音を出したほうが美しく豊かな音が出てホールに美しく響いた。
一昔前は大きな音を出そうと力んでしまい、響きのない「生音」が近鳴りしていたものだが、最近は本当の意味で「楽器を鳴らす」ということがいかなることであるかがようやくわかった感じ。「楽器を鳴らす」のではなく「空気を鳴らす」、この感覚がわかったのは大きな収穫だった。
今年の7月にもしこっちの予定が空いていたら、このホールで演奏会に出演させていただく予定だ。音大でピアノを学び教室を開いている叔父さんの奥さんの伴奏でソナタを演奏したいと思っている。曲目は未定だが、できればブラームス、フランク、あるいはプロコフィエフ辺りを演奏できたら嬉しい。
今までオケ一直線に駆け抜けてきてソロの技術に乏しい自分にとっては良い経験になるだろう。
僕の叔父は某コンサートホールの館長をしている。昔は東京の某プロオケのマネージャーをやっていた人で、叔父さんのおかげで僕は若くしてギル・シャハムやアファナシェフなどの一流の演奏家たちの生の音楽に触れることができたのだった。
叔父の厚意で特別に誰もいないホールで反響板を出してもらい演奏することができた。ホールで弾いて気付くことは「響き」の大切さ。全身の力を抜いてフワッと音を出したほうが美しく豊かな音が出てホールに美しく響いた。
一昔前は大きな音を出そうと力んでしまい、響きのない「生音」が近鳴りしていたものだが、最近は本当の意味で「楽器を鳴らす」ということがいかなることであるかがようやくわかった感じ。「楽器を鳴らす」のではなく「空気を鳴らす」、この感覚がわかったのは大きな収穫だった。
今年の7月にもしこっちの予定が空いていたら、このホールで演奏会に出演させていただく予定だ。音大でピアノを学び教室を開いている叔父さんの奥さんの伴奏でソナタを演奏したいと思っている。曲目は未定だが、できればブラームス、フランク、あるいはプロコフィエフ辺りを演奏できたら嬉しい。
今までオケ一直線に駆け抜けてきてソロの技術に乏しい自分にとっては良い経験になるだろう。
◆ 2005.03.06 Sun
人間を読む
人間のコミュニケーションはどこか読書に似ている。
そんなことが話題になり、友人と語り合っていた。人間を読むことは本を読むこと以上に難しい、本は目次を読めば何が書いてあるかが大体解るし、情報を文字として視覚的に読みとることができる。
一方、人間というのはこちらが必要とする情報がある場合には、それを引き出すための問い掛けを作らなければならない。読書と本質的に違うのはコミュニケーションが「双方向」であることだろう。
そして相手を読むということは自分が読まれる事に等しい、人間のコミュニケーションとはお互いを読みとり合う営みといっても良いのかもしれない。
本を沢山読んでいる人というのはバックボーンが広く面白い人間が多いことは経験上確かではあるが、そういう人間は更に二つのカテゴリに分けられる。
一方は本は読むが、人間は読まない内向的な読書家。中でもひねくれた人間は知識で壁を作り自分を囲い、人とのコミュニケーションを無意識に敬遠している。この類の人間は孤立しやすく、知識量が豊富な割に人間として薄っぺらい印象を受ける。知識を含有していても、それを生かす術を知らないのだろう。
もう一方は本も人間もよく読む外交的な読書家。彼らは知識を人とのコミュニケーションの中に「生きた形」で応用する術をよく知っているから、自然とその人の周りに人の輪が出来ていく。でもこの考え方で行くと読書しない人間は論外、みたいなように受け取られてしまうかもしれない。
僕の友人には「読書してるとまるで読み終わる為に読んでるみたいで全然落ち着かない」という人もいるし。読書にはある程度適性がある。必要最低限の本しか読まないという人もいるし、1日に1〜3冊ペースで読むような人もいるわけだ。
僕の考え方としては、十冊の本を読むよりは、一人の魅力的な人間を徹底的に「読む」ことの方が価値があるのではないかと思っている。僕は読書量は決して多い方ではない、図書館に引き篭もってあれやこれやと読み耽ることが時々あるが、恒常的に読んでいるわけではない。
僕は知識を「本」からよりも「人」から多く得てきたし、どちらかというと問いかけと答えを軸に進んでいく人間とのコミュニケーションが好きなんだと思う。
さあ皆さんも人間を読みに外へでかけましょう。
そんなことが話題になり、友人と語り合っていた。人間を読むことは本を読むこと以上に難しい、本は目次を読めば何が書いてあるかが大体解るし、情報を文字として視覚的に読みとることができる。
一方、人間というのはこちらが必要とする情報がある場合には、それを引き出すための問い掛けを作らなければならない。読書と本質的に違うのはコミュニケーションが「双方向」であることだろう。
そして相手を読むということは自分が読まれる事に等しい、人間のコミュニケーションとはお互いを読みとり合う営みといっても良いのかもしれない。
本を沢山読んでいる人というのはバックボーンが広く面白い人間が多いことは経験上確かではあるが、そういう人間は更に二つのカテゴリに分けられる。
一方は本は読むが、人間は読まない内向的な読書家。中でもひねくれた人間は知識で壁を作り自分を囲い、人とのコミュニケーションを無意識に敬遠している。この類の人間は孤立しやすく、知識量が豊富な割に人間として薄っぺらい印象を受ける。知識を含有していても、それを生かす術を知らないのだろう。
もう一方は本も人間もよく読む外交的な読書家。彼らは知識を人とのコミュニケーションの中に「生きた形」で応用する術をよく知っているから、自然とその人の周りに人の輪が出来ていく。でもこの考え方で行くと読書しない人間は論外、みたいなように受け取られてしまうかもしれない。
僕の友人には「読書してるとまるで読み終わる為に読んでるみたいで全然落ち着かない」という人もいるし。読書にはある程度適性がある。必要最低限の本しか読まないという人もいるし、1日に1〜3冊ペースで読むような人もいるわけだ。
僕の考え方としては、十冊の本を読むよりは、一人の魅力的な人間を徹底的に「読む」ことの方が価値があるのではないかと思っている。僕は読書量は決して多い方ではない、図書館に引き篭もってあれやこれやと読み耽ることが時々あるが、恒常的に読んでいるわけではない。
僕は知識を「本」からよりも「人」から多く得てきたし、どちらかというと問いかけと答えを軸に進んでいく人間とのコミュニケーションが好きなんだと思う。
さあ皆さんも人間を読みに外へでかけましょう。
◆ 2005.03.02 Wed
バルトークのピアコン
ブーレーズ指揮によるバルトークのピアノ協奏曲全集(1〜3番)を購入したのをきっかけにして、僕の中でまたバルトーク熱が高まってきている。
バルトークのピアコン(1〜3番)は以前にも聴いたが、その当時はそれほど僕の琴線に触れることもなく、「ふーん、バルトークか」としか思わなかった記憶がある。その時聴いたのは恐らくコチシュの全集だったはず…そんなに悪い演奏ではなかったのだが。なんでだろう。
とにかく今回改めて作品に触れ、僕はとても感動した。三曲ともソリストとオケが違うというのがとても面白い、でもちぐはぐな感じはなくて。そこはやはりブーレーズのまとめ方の上手さといって良いんじゃないかと思う。
特に3番にグリモーを起用したのは本当に正解だ、彼女の繊細な音作りが2楽章で最高の形で生きている。この3番の2楽章の冷たい美しさは全曲の白眉だ、バルトークに抵抗のある人もこれだけは聴いて欲しい。
全体として録音も良く印象的な低音部がクッキリ聞こえてバルトーク節を心の底から楽しめる。「土臭い」というよりは「洗練された」という形容詞が当てはまるが、僕はこういう演奏が好きだ。
《バルトーク:ピアノ協奏曲全集》
ピアノ協奏曲第1番 クリスティアン・ツィメルマン (Pf)
シカゴ交響楽団
ピアノ協奏曲第2番 レイフ=オヴェ・アンスネス (Pf)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ピアノ協奏曲第3番 エレーヌ・グリモー (Pf)
ロンドン交響楽団
ピエール・ブーレーズ (指揮)
録音 2001年11月、シカゴ、シンフォニー・ホール (1番)
2003年2月、ベルリン、フィルハーモニー (2番)
2004年10月、ロンドン、St.ルークス・ジェルウッド・ホール (3番)
バルトークのピアコン(1〜3番)は以前にも聴いたが、その当時はそれほど僕の琴線に触れることもなく、「ふーん、バルトークか」としか思わなかった記憶がある。その時聴いたのは恐らくコチシュの全集だったはず…そんなに悪い演奏ではなかったのだが。なんでだろう。
とにかく今回改めて作品に触れ、僕はとても感動した。三曲ともソリストとオケが違うというのがとても面白い、でもちぐはぐな感じはなくて。そこはやはりブーレーズのまとめ方の上手さといって良いんじゃないかと思う。
特に3番にグリモーを起用したのは本当に正解だ、彼女の繊細な音作りが2楽章で最高の形で生きている。この3番の2楽章の冷たい美しさは全曲の白眉だ、バルトークに抵抗のある人もこれだけは聴いて欲しい。
全体として録音も良く印象的な低音部がクッキリ聞こえてバルトーク節を心の底から楽しめる。「土臭い」というよりは「洗練された」という形容詞が当てはまるが、僕はこういう演奏が好きだ。
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