◆ 2005.06.30 Thu

野生に還る。

早朝から東京にはもの凄い勢いで雨が振っている。

「この国にスコールなんてあったけ?」と思った。まぁ沖縄だったら亜熱帯地方だからスコールはけっこうあるらしいが。…でもここは東京だぞ。(笑)シャワーを浴びる直前だったので、Tシャツ一枚に短パンという格好で外に出てシャワーのような雨を思いっきり全身に受けてみた。なんか叫びたくなった。僕の中の「野生」が解き放たれていくような感覚。

(通行人は「この人頭おかしい…」と思っただろう。)

いつから人間は傘なんてつまらんものを使うようになったんだろうと思った。大昔の人間もこうやって雨を全身に受けたりしてたに違いない、素敵だなぁ。シャワーのような雨を全身に受けて気付くことは、その瞬間は「雨」というものが全くネガティブな存在でなくなっている事。むしろ「もっと降れー!うをー!」という感じになる、なんだかとても素敵な体験だった。

昔の人間もこんな爽快感を味わっていたのだろうか、もしそうだとするならちょっとそういう時代が羨ましい。でも、ずぶ濡れで部屋に戻ってから浴びたシャワーも気持ちよかった、これ思いっきり「文明の利器」だよな。大昔の爽快感と現代の爽快感を両方とも味わえているのかと思うと、ちょっと得した気分になった。あは。

なんとなく旅に出たいなと思った。野生に還る旅。
◆ 2005.06.29 Wed

衣装が人生を決める。

愛読雑誌の一つ装苑の8月号を読んでみる。

「アンガールズ TOKYOブランドを着る」という特集が載っていた。アンガールズの二人がsoe(ソーイ)の服に身を固めて、まるでモデルみたいなアンニュイな表情を浮かべたスナップと共に、彼らの文章が載っている。アンガールズといえば巷では「キモ可愛い」といわれるキャラで、その容姿はお世辞にも「イイ男」ではない。

0506281.jpg

写真右の背の高い方が田中だ、彼のフルネームはなんと田中卓志(たなかたくし)である。漢字違うけど僕と同じ名前。写真の田中の髪型が高校時代に僕が好んで取り入れていたマッシュルームヘアーというのも何だか因縁めいている。(笑)写真左は山根、細い体に謎の斜め前髪がなんとも独特。

装苑に載っていた文章の内容なんかはどうでも良くて、僕が強い衝撃を受けたのは二人のスナップの方だった。soeの服でお洒落に決めた二人はちゃんとモデル的な雰囲気を演出していたのである。Tシャツにジーパンというテキトーなファッションでガリガリのボディーラインがモロに見えるいつもの「キモ可愛い」彼らの姿は無かった。

なんというか改めて「服」の持つ力というべきものを感じた、(もちろん彼らを豹変させる撮影技術も素晴らしいと思う。)人間は「身なり」によって観られ方が大きく変わってくる、着ているファッションによってもしかすると、付き合う人間や人生そのものまでが変わってしまうのかもしれないのだ。ある僕の尊敬するおじさんにいわれた言葉を思い出した…

良い服を身にまといなさい。安っぽい服装は君の価値を下げてしまう、そうすると君の周りにも“安っぽい人間”が集まるようになってきて、本当に“安っぽい”人生になるよ。

勿論、彼の言っていたこの言葉は極端な言い方だと思う、でも間違ってはいない。そのくらい衣服は人間にとって重要なものである。昔の民族が同じ衣装を身にまとうことで「同胞意識」を感じたり、民族の「誇り」を象徴していたという史実もまた、「衣服の重要性」を示唆していると思う。

なんだか話が大きくなってきたが、結局言いたかったことは、「服って人の印象をこんなにも変えるんだなぁ」ということだ。
◆ 2005.06.28 Tue

活字離れ?

「活字離れ」という言葉をよく聞くようになった。

【ネット時間、新聞を超える…活字離れ加速】

麻生太郎総務相は28日の閣議に、平成17年版「情報通信に関する現状報告」(情報通信白書)を提出した。

メディア別の1日当たりの平均利用時間は、インターネットが37分(前年32分)と新聞の31分(同33分)を初めて上回った。

ネットが「情報収集手段として不可欠なメディア」になる一方、若者を中心に活字離れが進んでいることが改めて浮き彫りになった。

僕もこないだ新聞の定期購読をやめて、ネットニュースを毎朝見るようになった人間なので、この流れに乗っている若者の一人ということになる。僕が新聞をやめた理由としては、お金がかかる、忙しくて読めない日がある、ゴミが増える…といった点が挙げられる。読む余裕がある時だけ売店で買った方が経済的だなと、古新聞の山を見て僕は考えた。

でもこれって果して「活字離れ」といって良いんだろうか?見るものが紙面であれ画面であれ、「活字を読む」という点で、読者側の感覚は全く変わらないというのが本当のところだ。実際ネット上のニュースは、各紙面に書かれている文章をピックアップして、そのままカット&ペーストしたものが多い。

僕自身はニュースなどの情報はネットから収集するが、文学作品などを読む時はやっぱり文庫本を買っている。ネットをするようになる以前に比べて、読む活字の量は減っていない、いやむしろ増えているといって良いと思う。本を書店で購入するのがおっくうだったという友人は、ネットで気軽に活字に触れられるようになった、と言う。きっと同じような事を感じている人間は少なくないと思う。

「ネットの普及=活字離れ」と言われたときに若者が「違和感」を感じてしまう要因はそこにあるんだと思う。



考えてみればウェブサイト、メールマガジン、メールなどの流通に伴って、活字が飛び交う量はどんどん多くなってる。現代は人類の歴史上で最も活字が多く飛び交う時代だ。

とすると、巷でいわれている「活字離れ」って一体なんだろう。思うにそれは、「出版業界の利益になる活字の流通が減る」ということなんだと思う。一般人にはある意味どうでも良い話だ。IT化に伴い文字がデジタル化されるようになった現代では、「活字文化」そのものが再構築され始めているのだと思う。

Wired Newsのこの記事には興味深い内容が書かれている。

若者の活字離れが進んでいるから、というのもまったく的外れだ。その反対に、若者の多くはむさぼるように読んでいる。だが、情報は無料であるべきだという信条の下で育ってきたために、ニュースにお金を払う理由を見いだせない。

その代わり、ワシントン・ポスト紙のウェブサイトにアクセスするか、『Googleニュース』で文字通り何千、何万というソースから情報を選んでいる。『RSS』形式で配信される最新情報(RSSフィード)を携帯情報端(PDA)で受け取る人もいれば、自分と同じ意見を持ったブロガーのサイトを訪れる人もいる。

要するに、若者たちは情報収集という行為をカスタマイズしているわけで、それは1種類の紙の出版物だけでは絶対にできないことだ。

この「情報収集という行為をカスタマイズしている」という言葉に尽きると思う。無くなったのではなく形を変えたのだ。「活字離れ」とはネットを若者がどう活用しているかを知らない年配の方々の幻想であり、出版界の不利益のことだと思う。
◆ 2005.06.24 Fri

世代へのレッテル

ニュースを見ていて「頭悪いなぁ…」と思う瞬間。

最近「15歳」の犯罪が相次いでいる事を受けて、「15歳」に焦点をあてた特集が多く組まれている。僕が17歳の時はタイムリーに「キレる17歳」なんてテレビでいわれていて、かなり戸惑った覚えがある。かの有名な神戸須磨児童連続殺傷事件を起こした、酒鬼薔薇聖斗が17歳だったというのも手伝って、「キレる17歳」というレッテルは瞬く間に浸透していった。「僕が“渦中の17歳”なのかぁ…」とよく考えたものだ、それこそ、そのくだらない風潮に「キレそう」だった。

あの時は「年齢一括りで考える」というあまりにも現実離れした思考が蔓延していたのも呆れていたが、それ以上に、自分達の教育の至らなさを社会問題に押し付けようとする頭の悪い大人によって「17歳」がモンスター視されているという現実に失望したものだ。

最近はそうでもないが、一昔前は未成年の大きな事件が起こるとメディアはすぐ「学校が悪い」と安直に言っていた。当時の自分には、視聴者からの反感をかわないように、学校に責任をなすり付けているようにしか見えなかった。いや、実際のところそれは正に「なすり付け」だったと思う真に腐敗していたのは家庭(家庭教育)の方だった。

「父」を中心とした日本の 伝統的な「家」構造は崩壊した、つまり父親の権威は失墜し、家庭を先導する人間がいないという状況が広がっている。とはいっても「全て」ではない、「良い家庭」は今も良いし、子供にしてもまともな社会性、価値観をきちんと獲得している子供はたくさんいるのだ。それは「層分化」と言うほど明確で規則的なものではないが、家庭により「ギャップ」が大きくなっていることは確かである。

極論をいうと、頭の悪い(学力どうこうではなく「人間」として)親に育てられた子供はやっぱり頭が悪いということである。もうちょっとスマートに、賢くやれよ!とそいつらに言いたい、子育てにしても家庭教育にしても頭の悪い親が多すぎる。

…と今にもキレそうな、元「キレる17歳」でした。
◆ 2005.06.19 Sun

「作りたい服」と「売れる服」

どんなブランドにも衣服は大きく分けて二つの種類がある、一つは「見せる(魅せる)服」で、もう一つは「売る服」である。

もちろん見せる服が全く売れないわけではないが、その類いの服は非常に鮮烈で象徴的なデザインが施されていることが多い。そこ象徴されているのは、そのブランドの思想であったり、或いはそのシーズンのコンセプトであったりすることが多い。実際アパレルのバイトをしている友人もそれをよく知っていたし、デザインする側の人間もそういう部分を認めている。

デザイナーが本当に「作りたい服」と「売れる服」というのは一致しないことが多い。衣服というものは基本的に普通の人が着るものだ(オートクチュールに関しては例外が多いが)、いわゆる創造性に溢れた(ぶっ飛んだ)服を普通の人が着ることはなかなか難しい、衣服が着る者を選んでしまうのだ。

それは音楽とも相通ずるところがあるような気がする、「作りたい音楽」と「売れる音楽」がイコールにならないのと同じことだと思う。だからといって、「売れるものを作ろう!」となってしまうと、いわゆる「媚びた」ものが生まれてしまう。それではデザインとしてまったくつまらないし、無価値である。

そこでデザイナー達はバランスを取ろうとする、そのための手段として「ファッションショー」というものがある。つまりショーは本当に作りたいモノ、自分の思想、方向性が最大限に誇張された形で具現化されたパフォーマンスであり、そこに描かれるのは「服」というよりはもはや「芸術」に近い。僕も今までに知人のコネで何度かショーを見に行ったり、デザイナーの友人のショーのプランニングに首を突っ込んだことがあるが、その中でも僕は同じようなことを考えていた。

ショーが前衛的なものだったのにも関わらず、実際に店に行ってみると意外とシンプルで使える商品、つまり「売れる服」が多かった…なんてことはよくある。とはいえショーで表現されていた思想・方向性が無視されているわけではなくて、それがもっと大衆的なデザインに形を変えている、といった方が適切だろう。オートクチュール的なプロダクトではない一般的なプロダクトには、一般向け(つまり日常に即した)のデザインが施されているのだ。そしてそれこそが前に述べた、「売る服」なのである。

デザインをしていく上で「売り上げ」というリフレクションは重要で、お金が無ければどんなにイマジネーションが沸いてもそれを実際のプロダクトとして形にしていくのは難しいという現実がある。しかし売れるという点に重きを置いていくとデザインにも制限が出てくるし、本当に作りたいものは作れなくなってしまうだろう。そのジレンマと折り合いを付けるのはショーという誇張された世界であり、ショップに飾られた「見せる(魅せる)服」なのだと思う。



デザイナーを目指す友人への遺言。

芸術家はあらゆるモノに恋をしろ

いろいろなもの(人、風景、音楽、絵画、小説…)に恋をする、愛でなく「恋」であるということがここでは重要なポイントである。愛してしまうとそこから動きたくなくなってしまい、想像力にボーダーが引かれてしまう、比較的短期間で刺激的な恋を重ねることによってイマジネーションは「肉付け」されていくのだ。

今まで色々な人間を出会う中で、「なんでも吸収する芸術家」というのに出会うことがあった。そしてそういう人間こそが僕の言うあらゆるモノに恋をする芸術家」である、そういう人間は自分の志しているジャンルとは一見全く関係の無いモノからも多くのインスピレーションを生み出したり、あるいは全く関係のない分野の人間からも自分に応用できる知識・感性を真綿のように吸収していく。そういうタイプの人間に会う度に僕は「吸い取られる」ような感覚を覚える。そしてそういう人間は優れた創造力を持っていることが圧倒的に多い。

イマジネーションというものが仮に「泉」のようなものだとすれば、「恋し続ける芸術家」の泉は本当に枯れることを知らないのだ。

常に自分の作品を外に“リリース”し続けること

まだコレクションも作れなければショーも出来ない位の駆け出しの時期は、常に作品を自分から外にリリースし続けることが重要だと思う。リリースするということは、つまり「反応が返ってくる」ということだ。

もちろん時には否定され、酷く傷つくこともあるかもしれないが、早い時期から常に外の反応や意見を上手く吸収し昇華していけば、デザインを勉強する人間にとっては大きな経験になっていくと思う。

とにかく「自分の世界」に閉じこもらず常にリアルタイムな反応・意見と向き合いながら創造を続けていくことが大切なのではないだろうか。


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