◆ 2005.08.24 Wed

目の大きい子が好き

僕は「瞳フェチ」だ。間違いない。

言うまでもなく目が大きい子には滅法弱い、 いや、大きくなくても、瞳に力のある女性には魅力を感じる。瞳はその人間の含蓄だとか経験を声なき言葉で語りかけてくると思う、上手く言えないが経験と含蓄のある人間の瞳には「深さ」と強い「意志」を感じるのだ。

そして瞳は真実を語る。言葉なんてものは上手く使えば幾らでも取り繕えるものだが、瞳はなかなか嘘がつけない。逆に言うと、「目で嘘をつける人間」こそ本当の意味で嘘つきだと思う。嘘つきの話はどうでも良い、とにかく目なんだ。言ってることわかります?

目力のある子に見つめられるとやばい、上目遣いなんてされたらもう死にそうになる 。

―追記。

「上目遣い」というのは本来、「瞬間的な行為」だが、相手が背丈の小さい女性の場合はそうはならない 、「小さい子→見上げてくる→常に上目遣い」となるのだ。小さい子は核武装しているといっても過言ではない。(笑)
◆ 2005.08.19 Fri

日記を書く日本人

ウェブログについて考えてみようか。

日本でのブログの普及率が伸び続けている、今や誰でも一つや二つ持っている時代である。ブログのシステムは画期的だ、トラックバックという「記事と記事を繋ぐ」という形式により、まったく新しいコミュニティ形態が生まれたのである。

でもブログはいわゆる「ダイヤリー」とは違って、本来はもっとジャーナリスティックなものである。時事ニュースやトピックスに対して自らの専門や立場に根ざした分析や意見を書いたり、他の著者と議論したりする形式がベーシックなんだそうだ。実際にアメリカ人のブログなんかを覗いてみると、日本人のブログとは大きく性質が違っていて、「ブログって本来こういうものなんだ…」と思う。

著者の行動とかその日の何気ない出来事を記す「個人ニュース」的な日記サイトは、実は日本で独自に育まれたサブカル的なものかもしれない。今ではもの凄くポピュラーなものになってるけど。要は海外の「blog」と日本の「ブログ」は、システムは同じでも、本質的にはかなり違っているという話だ。

海外の「blog」は新しい「メディア」と呼んでいいものだが、日本における「ブログ」は、昔からあった「ダイアリー」と性質的には何も変わっていないように思われる。



この記事に対して非常に興味深い感想を頂いた。

ブログに日本人は外国人と違って、自分のことを書くと知って、日本自然主義を思い出しました。

日本人が「私小説」のような独特のブログを書いているという話から、自然主義文学と結びつけるなんて素敵。いわゆる「自然主義」というのは、元々はゾラがフランス文学界で提唱した虚飾のない自然ありのままの描写によって構成されるようなものだった。

しかし日本にそれが移植された時にはその「ありのまま」っていう観念だけが一人歩きして「赤裸々」的なニュアンスに傾いていって結果的には「現実暴露」になってしまったという歴史がある。田山花袋の「蒲団」などはその典型的な作品だ。それが現在の「私小説」への流れであることは確かだろうから、言われてみると確かに繋がっている。

日本人って気質としてそういうものが好きなのかもしれない。そういえば日本の教育界では一時期馬鹿みたいに「個性」を尊重する教育というスタンス打ち出していた。こうやって一人一人が「自分」を語る時代になったということを考えるとこれも単に教育の成果だろうか。(笑)
◆ 2005.08.16 Tue

無駄な幸福論争

大きな地震があった。

自分の地元は震源に近く震度5強もの揺れを記録していた。安否を確認するために電話をしたが回線がパンク状態で、連絡をとることができないまま不安な時間が過ぎていった。しばらく経って、ようやく母親と連絡が取れた、なんとか無事だったようだ。本当によかった。

いつ、何が起こるかわからない世の中である、当たり前のように存在し今日を生きている人間が、明日、この世からいなくなっているかもしれない。人間はその時に残酷な運命に翻弄されながら毎日を「生きていく」ことしかできないのだろう。

自分が今を生きていること、自分を取り巻く人間たちが今を生きていてくれること…一見当たり前のような日常が奇跡のように思えて、それだけでも幸せなことなんだなと思う。そう考えると「貴方にとっての幸せは何ですか?」なんて問い掛けを繰り返すだけの幸福論争が馬鹿馬鹿しく思えてくる。

幸福とは、要は各々の価値観によって決定される、「範疇の置き場所」の問題なのだ、既に今自分の手の中にあるものを幸せと呼ぶか、今の自分に無いものを幸せと呼ぶか。或いは一人称の世界を越えて自分以外の誰かの幸せを幸せと呼ぶ人もいる。

そう、幸せは人それぞれ。でも今自分の手の中にある目下の幸せに気付けることって大事だし、気付けることそれ自体が幸せなことなんじゃないかなと思った。
◆ 2005.08.11 Thu

音楽と自然

友人と色々と音楽について語り合うなかで、興味深い話ができた。

僕がキャンプで山奥に行った時のこと。そこで過ごしている間はずっと耳に川の音が聞こえていて、無意識に僕の精神と一体になっている。それはまるで永遠性を感じさせる「音楽」のようだった。

そんな僕のエピソードを皮切りに、話は膨らんでいき、「永遠に続くんじゃないかという期待を与えてくれる音が、人間に最高の安らぎと安心感をもたらす」という話になった。

音楽を演奏する人間に「生と死」があるように、音楽には宿命的に「始まりと終わり」が存在していると思う、誰しも音楽が終わった瞬間の感動・余韻の裏にうごめいている「終わってしまった…」というある種の、落胆・失望というべき感覚に気付いた事があるだろう。

バッハの美しいアリアの延々と続くあの通俗低音も、川の流れる音や、海の波音に包まれた時ほどの安心感を生んではくれない、それは終わりが見える(予感させる)からだ。

音楽にはそれを「聴く」という意志が存在するが、川の音や、海の音、鳥の囁き…といったものは無意識に「聴こえてくる」もので、それを「聴いている」という意識もなく、いつの間にか私たちはその音に包まれて、精神と一体になるのだ。

どこかで似たような話を見かけた覚えがあるなと思い、調べたら村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」だった。

ハシは、三ヶ月間音ばかり聞いたから、聴覚が鋭くなっていた。ハシは、テレビを見ながら音を聴いた。風の吹く公園や揺れる樹々、金属やガラスや動物や楽器や様々な人々の顔。ハシは、その物の形状と音、そして音から受けるイメージの関係を僅かながら把握したのである。

ハシは二重録音のできるテープレコーダーを、学校に行くという条件で買って貰い、様々な音の組み合わせを、キクを相手に実験した。ハシは重要なことを二つ知った。

安堵感を与える音は、屈折、透過を経ていること、そして永遠に続くだろうという予感と期待を含んでいることの二つだ。例えば、キクが最も安らぎを覚えたと言った音は、どこか方向のわからない教室から微かに響くピアノの練習音と、降り続く雨音に重なる窓の外の雨垂れの音だった。

そういうものを音楽として形にしたのがアンビエント、すなわち環境音楽だと思う。

例えばBrian Enoの「Ambient 1: Music for Airports」はタイトルどおり、空港用に制作された音楽で、その音楽は空港の人々の話し声、遠くから聴こえる離陸する飛行機の音などが重なる事で、初めて真に音楽として完成する。

音楽は偉大なる自然の前に今日もひれ伏す。
◆ 2005.08.09 Tue

暴力と正義と癒し

「女を殴る男は最低だよー。」

電車の中でふと、そんな言葉が耳に入ってきた。うんうん、確かにそうだね、でも男を殴る女も最低だよ。つまるところ「人」を殴る人は最低ということになる。

僕も女性を殴った事は一度も無いが、相手が男となるとそうではない。大学入ってからは流石に無かったけれど、小中高振り返ると、二年に一回くらいのペースで殴り合いをしていたようだ。わー。

そうはいっても、小学校の時の喧嘩は本当につまらないものだった、何か物を独占されたとか、壊されたとか…短絡的な理由で喧嘩をしていた。もっと客観的にそれらの行為を振り返ってみると「自分一人のために戦う」、という感じがする。

でも中学校くらいになると、その性質が少しずつ複雑に変わってくる、自分を取り巻く愛する人や友人を悲しませたり、嫌な思いをさせた相手に殴りかかっていく。つまり自分のためではなく「誰かのために戦う」ようになってくるということだ。

それは一見「正義感」のようにもみえるが、実際その中身はもっと複雑で、「他人の痛み」を「自分の痛み」として感じるようになるからだ。例えば私たちは、どこか遠くの国で知らない人が泣いていても、さほど悲しくはならないだろう。しかし、自分と「繋がっている人間」が傷ついた時には、自分の体の一部が血を流すような感覚を覚えるのだ。

大抵の人間にとって、そういった痛みを一番共有できる他人(自分以外の「誰か」という意味での)は「家族」だと思う。これは個人的な価値観なのだが、人と人が仲良くなっていくということは家族的な関係・存在に近づいていくことじゃないかと思っている。

そうはいっても、自分と繋がっている人が傷付けられたからと言って、すぐにその相手に殴りかかるわけではないし、「アイツを殴ろう」と始めから考えたりしたことは一度もなかった。最初は「言葉」で話し合うのだ、その話が決裂した時に初めて僕は「暴力」で話しかけていたのだと思う。

でも、「今」そういう事態になっても、きっと僕は拳を振り上げたりはしないと思う。人を殴ったことがある人ならば誰しも、その後に感じた言いようの無い空しさと、やり切れない気持ちを覚えているだろう。つまり、形はなんであれそれが「暴力」である以上、「誰か」が新しく傷つくことに変わりは無いのだ。

傷つけられた人のために僕が誰かを殴る事によって、その「誰か」と繋がっている人間も傷付くということを知った。それでは「傷と悲しみの連鎖」はそのまま続いていき、結果的には「憎悪と報復の連鎖」を導いてしまうのだと。

そんな苦い経験から学ばされて、僕が選んだのは、「傷つけた誰か」に対して報復することではなく、「傷つけられた誰か」を癒し、或いは支えるということ。「そんなん奇麗事だよ!」と言う人もいるだろう、しかし「暴力」によって傷付けられた人間の心を、「暴力」で癒そうとする事の方がよっぽど強引な奇麗事だと僕は思う。それでは堂々巡りなのだ。

それが「正義」だと僕にはどうしても考えられない、というよりも、「正義」なんてものはそもそも存在しないのだ、「勧善懲悪」は時代劇と特撮ヒーローの世界の中だけの価値観だと思う。話を広げればここまで語ってきたことは世界中で起きている「戦争」にそのまま適用しても同じことが言えると思う。(戦争絡みになると話が面倒なのでここで止めておく)

つまらない理想論に見えてしまった人、ごめんなさい。それがに俗に言われてる「価値観の違い」ってやつですね。そういう人は怒りに任せてどうぞこれからも「正義」と言う免罪符を握り締めながら、暴力を振るってくださいな。でも空しくなるよ!やり切れなくなるよ!…なんちて。

自分が傷ついた時に人に心を癒され、支えられたという経験によって、今度は僕が癒したり支えたりしたい、と思うようになっていく…つまりそこに導かれているのは「癒しと支えの連鎖」である。人を「傷つける」よりも、癒したり支えたりできる人間になれたら良いなと思っている。
◆ 2005.08.08 Mon

浴衣の女性

浴衣の女性について。

花火大会シーズンということで浴衣を着ている女性をよく見る。僕は基本的に浴衣は好きだし、浴衣を着ている女性は素直に「可愛い…」と思う。というか可愛すぎて失神しそうになる時さえある。

しかしながら、東京の浴衣を着ている女性をみていていつも気になってしまうことがある。

帯が緩すぎるんだよぅー。

別に自分が京都通だからというわけじゃなくて、普通に関西の感覚でいったらたいていの東京人の着付けはとにかく帯が緩い。せっかく可愛い着物を選んでも、着付けが惜しいなと思う。惜しいんだ。

そしてこの際正直に言っておくと、浴衣の女は可愛いといったが浴衣を着て可愛い女の子は浴衣を着なくてもたいてい可愛い。逆に浴衣を着ても…(以下省略)。

現実はそんなものだ。(笑)
◆ 2005.08.01 Mon

年上との付き合い

家の前に着いたら大家さんとたまたま会って、久しぶりだったから世間話を1時間以上もした。なんか昔は年配の人の世間話ってつまらなくて付き合えなかったけれど、最近は全然平気で、むしろ会話を楽しめるようにまでなってしまった。歳か?もう歳なのか!?

深く考えるのはやめる。

でも年配の方達って話し相手が中々いなくて、「淋しい人」が多いというのもよく知っているし。話してみると結構面白い、あまり「年上だから…」と構えたり一歩引いたりしないで、若者と話す時と同じ感覚で話しても、意外とスムーズで楽しい会話ができるものである。学ぶ事も多い。

結局大事なのは年上への「ステレオタイプ」を捨てることなんだと思う。高齢化社会だなんだといわれる世の中だし、年の大きく離れた人とさりげなく、楽しく会話できるトークセンスぐらいは身につけておきたいものだと思う。そして将来は人の心を熱くする音楽と言葉を語れる貫禄のある大人になりたい。そう…美輪明宏のような大人に。

…最近美和明宏が好きかもしれない。


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