◆ 2005.10.25 Tue

秋のブラームス祭り

秋になると僕は必ずといっていいくらいブラームスの音楽を聴く。

中でも後期ピアノ作品4つ(3つの間奏曲Op.117、7つの幻想曲Op.116、6つのピアノ曲Op.118、4つのピアノ曲Op.119)、クラリネット・ソナタ第1番と第2番、クラリネット五重奏曲は「秋の音楽」と呼ぶに相応しいような哀愁と淋しさに満ちている。

「秋といったらブラームス」、このような内容は今までこのサイトで何度も書いてきた(それだけ強くリコメンドしたいということでもある)。今回は、僕が「秋」と「ブラームスの音楽」を、無意識に結び付けてしまう理由について考えてみたいと思う。

どうやら僕の中では秋という季節に哀愁や淋しさといったイメージを無意識に結び付けているようだ。それが感覚的なものなのか経験的なものなのかは自分自身よくわからない、おそらくどちらもあると思う。例えば秋風に枯葉が舞う街を歩いている時に感じる淋しさは日本に住んでいる人ならばだれしも経験していると思うし、秋は「孤独」な感覚に浸りやすいシチュエーションが生まれやすいのだと思う。

ふと、思いついたことだが秋を代表する歌「小さい秋みつけた」が無意味に淋しいのはそれが象徴的に現われている、「誰かさんがみつけた」という歌詞も考えてみると物凄く淋しい、三人称でどこか客観的な歌詞…歌い手はここでは一人の目撃者に過ぎない。

もっというと歌い手は独りであり、小さい秋をみつけた「誰かさん」もまた独りなのだ(あるいはここでの「誰かさん」は自分自身を遠回しに指しているのかもしれない)。「一緒に探せよ!」とツッコミたくなる人もいるだろうが、「秋」にこびりついた孤独の情念が作詞者をそうさせないのだろう。

皆さんもブラームスの秋めいた作品を聴いたことが無い方はこの機会にぜひ一度聴いてみてほしい。秋のせいにして。
◆ 2005.10.19 Wed

音楽はスポーツではない

最近はフォーレの室内楽作品をよく聴いている。

EMIから全集が出ていて、これを購入すれば2000円ほどで室内楽が全部揃ってしまうといお得なシリーズ。録音当時はフランスの中堅若手の音楽家が集まったという感じだったのかもしれないが、若い頃のオーギュスタン・デュメイが演奏していたりしてこれが素晴らしい演奏なのである。

●フォーレ/Chamber Works Vol.1 (2CD)

[disc 1]
1.ヴァイオリン・ソナタ第1番イ長調op.13
2.ヴァイオリン・ソナタ第2番ホ短調op.108
3.子守唄ニ長調op.16
4.ロマンス変ロ長調op.28
5.アンダンテ変ロ長調op.75
6.初見視奏曲イ長調
7.チェロとピアノのためのシシリエンヌop.78
8.チェロとピアノのためのエレジーop.24

[disc 2]
9.チェロとピアノのためのロマンスイ長調op.69
10.チェロとピアノのための蝶々イ長調op.77
11.チェロとピアノのためのセレナードop.98
12.チェロ・ソナタ第1番ニ短調op.109
13.チェロ・ソナタ第2番ト短調op.117
14.フルートとピアノのための幻想曲op.79
15.フルートとピアノのためのコンクール課題曲ヘ長調          
16.ピアノ三重奏曲ニ短調op.120

●フォーレ/Chamber Works Vol.2 (2CD)

[disc 1]
ピアノ四重奏曲第1番ハ短調op.15
ピアノ四重奏曲第2番ト短調op.45
ピアノ五重奏曲第1番ニ短調op.89 (1楽章)

[disc 2]
ピアノ五重奏曲第1番ニ短調op.89 (2・3楽章)
ピアノ五重奏曲第2番ハ短調op.115
弦楽四重奏曲ホ短調op.121

[演奏]
オーギュスタン・デュメイ (Vn)
フレデリック・ロデオン (Vc)
ジャン=フィリップ・コラール (pf)
ミシェル・デボスト (Fl)
パレナン四重奏団

デュメイのヴァイオリンはしなやかさと力強さの両面をバランス良く併せ持っている、現在の透明で一切の余計なものを削ぎ落としたような彼の音に比べると、幾分艶やかさというか色気のようなものが感じられる。

「音楽は常に精神的な行為であらねばならない」という彼のモットーはこの頃からすでに確立されていて、時代と共にその音色や演奏スタイルは少しずつ変わっていても、その根底には彼の精神的な気高さが貫徹されている。(もちろん、それだけパッションがあるので聴き疲れてしまう人もいるかもしれない)

いわゆる「天才」と呼ばれる演奏家は沢山いる。クラシックとはそういう世界だし、確かにそういわれる人は皆巧い。しかし、そう呼ばれる演奏家の中でもスポーツのような音楽をしている者は少なくない。

彼はそんな音楽界において今も昔も貴重な存在だと思う、派手なプロモーションを嫌いヴァイオリン生一挺でオーディエンスにメッセージを送り続けてきた彼の音楽は「本物」だと思う。

なんだかフォーレの話をするつもりだったのにすっかりデュメイの話題になってしまった。このCDお薦めだ、興味のある方は探してみて欲しい。
◆ 2005.10.14 Fri

聴衆の影響力

今日は友人と二人でKeith Jarrettのピアノソロコンサートを聴いて来た。

会場は東京芸術劇場、一年半振りの演奏会ということで客席は満員。これも日本人のキースによせる関心と期待の高さの表れだなと思って見ていた、日本の音楽ファンは熱心というイメージを持っていたが、改めてそれを実感できた。

しかし、今日は正にその「聴衆」によってコンサートがぶち壊しになってしまうことになる…まさか聴衆に裏切られるとは思わなかった。

聴衆の無神経なタイミングでのノイズ(主に咳払い)にキースが演奏を止めてしまう。そして聴衆に向かって注意を促す、「咳をしたい人は今してくれ」なんてことを言っていた。最初はユーモアなトークだと勘違いした何人かの客が拍手していたが(これも僕にいわせれば無神経過ぎる)、その彼の真剣な態度にほとんどの客はその忠告を真摯に受け止めた。

しかし、またしても曲が終わる直前のところで、客が荷物か何かを落として「ダンッ!」という大きな落下音が音楽を台無しにしてしまう。これにはキースも頭を抱えしばらく呆然としてしまう、そしてついにキースの怒りが爆発、聴衆に向かって確かこんなことを言っていた。

あのノイズは一体なんだい?僕は集中力のいるハードな演奏をしているのだから、みんなも集中して聞いて欲しい。

日本は集中力を必要とされる「瞑想」の伝統を持っている文化なのだから、そのくらい出来るはずだ。自分は新しい、全く伝統の存在しない国から来ている人間であるからこそ、そのことはよく理解しています。(皮肉って)どうか陳腐な西洋化は止めて欲しい。

ピアノを弾くという事は、もの凄い集中力を要することで(特に今回のこのソロのインプロビゼーションでは)、そのためには聴衆にも集中してもらわないと演奏は出来ないのです。

現在の世界状況は非常に難しい状況にあり、その状況を理解することにも、もの凄い労力が必要です。つまりこれは音楽にも言える事であって、私が演奏をするピアノを理解する、要するに向き合うためには集中力が必要なのです。

今回のような完全にインプロビゼーション(即興演奏)の場合、そこに紡ぎだされる音楽は観客も含めたその場の「空気」が与える影響が大きい。もっと大袈裟なことを言ってしまえば、キースから本当に良い音楽を引き出すのは「観客の役目」だと思う。

今日のキースはとにかく観客のノイズに気をそがれて明らかに演奏に集中できていなかったと思う。もっと言うと拍手のタイミングも速すぎる、音の残響とその後に残る余韻こそ音楽の最も美しい瞬間だというのに…。無神経な聴衆に本当に腹が立った。

仕舞いには携帯を鳴らしてしまう者まで現われてしまう始末、もうぶち壊しである。それでも、アンコールを求める拍手を繰り返す無神経な聴衆。中にはまったく英語の意味が分からず、キースが憤慨していることにさえ気付いていない人間もいたのかもしれない。

いつからこんなに無神経で低脳な聴衆が集まるようになってしまったのだろうか…キース・ジャレットは今や人気・知名度ともにナンバーワンのジャズ・ピア二ストである。今回の「事件」はその弊害かもしれない、聴衆の質が落ちているのは明らかである。

しかし、キースジャレットの演奏そのものは本当に素晴らしかった。ケルン・コンサートを聴いたのをきっかけに好きになった僕のようなベタベタな人間にとっても「伝説」といっていような存在のキースが目の前で演奏しているという、その事実だけで胸の奥から熱いものが込み上げてきた。アルペジオの流麗さもさることながら、なによりそのメロディの美しさは本当に素晴らしかった。改めてキースは天才だと確信させられた。

このような無神経なオーディエンスに気を悪くしていたにもかかわらず、アンコール(それも素晴らしい演奏!)を演奏してくれたキースには本当に申し訳ない気持ちと、感謝したい気持ちの両方でいっぱいだった。素晴らしい演奏だったけに、本当に「聴衆の質の悪さ」が悔やまれる夜だった。

これはクラシック畑での話だが、色々な演奏家が「日本の聴衆は熱心で、一音も聞き逃すまいというような集中力があり非常に感銘を受けた」というような発言をしているのを目にすることが頻繁にあって、僕自身もそこに小さな「誇り」を感じていた。

でも今日のコンサートでは結果的にその「日本の聴衆」に裏切られる結果となってしまった。残念だ。キースのあの言葉も手伝って、それが日本文化の凋落ぶりを象徴しているような気がしてなんだか恐ろしくなった。

あの聴衆たちに面と向かって言ってやりたかった、「もうキースの演奏会には来るな、家でCD聴きながら拍手でもしていろ」と。嗚呼、この怒りを一体どこにぶつけていいのかわからない。とにかく悔しい。
◆ 2005.10.13 Thu

音楽の推敲

ベートーヴェンの自筆譜が115年ぶりに発見されたらしい。

ベートーベンの弦楽四重奏曲「大フーガ」ピアノ版の自筆楽譜が、米ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外の福音派神学校で115年ぶりに見つかった。競売商サザビーズによって11月16日から19日までニューヨークで展示された後、12月1日にロンドンで競売に掛けられる。

今年7月、古文書庫を掃除していて楽譜を発見した神学校の司書は「そこの棚に無造作に置かれていた。わたしは(それを見つけて)ショック状態に陥った」と同紙に語った。

サザビーズによると、80ページに及ぶ楽譜には、書き込みや変更、削除が至る所にあり、なかには紙に穴が開くほど強く書かれたところもあった。専門家はこの自筆楽譜について、楽聖ベートーベンの思考プロセスを明らかにできるため、極めて価値が高いとしている。

「大フーガ」は聴覚を失ったベートーベン最後の作品群の1つで、弦楽四重奏曲として作曲され、作曲者自身によってピアノ版もつくられた。ニューヨーク・タイムズ紙によると、ピアノ版の完全な楽譜草稿はこれが唯一のものという。

この自筆楽譜は1890年、ベルリンで競売に付されたのを最後に行方が分からなくなっていた。12月の競売では、170万ドル(約1億9000万円)から260万ドル(約3億円)の値が付くとみられている。

こういうニュースって珍しいから、なんだか久しぶりにわくわくしてしまった。しかもその見つかった作品が、弦楽四重奏のための「大フーガ」変ロ長調Op.133だというではないか。サザビーズの原稿部門責任者の発言を見てもこの発見がどれだけ大きいものかをうかがい知れる。

競売会社サザビーズの原稿部門責任者、スティーブン・ロウ氏は、「素晴らしい発見だ。この自筆楽譜は、1890年発行のカタログに簡単な説明がのっているだけで、ベートーベン研究者たちも見たことがなく、それら研究者による記録もなかった」と述べた。

80ページから成るこの自筆楽譜は、有名な弦楽曲をピアノ向けにアレンジした楽譜というだけでなく、ベートーベンが作曲した数少ないピアノ連弾曲の1つという意味でも貴重な発見とされている。

サザビーズは、同楽譜は市場に出た現存するベートーベンの楽譜としては最も重要なもので、ベートーベン作品の全面的な再評価につながるだろうとしている。

ベートーヴェンが何度も楽譜を書き直すという言うのは結構有名な話で、初演の本番直前まで楽譜を直し続けていたといわれている。ヴァイオリン協奏曲を書いた時などは独奏ヴァイオリンの譜面を直前まで手直しし続けて、結局本番はソリストがほぼ初見状態で弾いたというエピソードもある。

対照的にモーツァルトなどは、頭の中で曲が出来ていて書き直しが全く無かっという話が伝説のように語り継がれているが、ふと冷静になって考えてみると、モーツァルトのようなシンプルな作品なら、推敲が要らないのは当たり前のようにも思えてくる。(まぁそれにしても凄いことなのだけど)

芸術が進化する過程において、「推敲」というのは絶対に必要な作業だと思う。ブラームスが何度も中断しながら20年もダラダラと交響曲第1番を作曲したのだって、ベートーヴェンを越えなければというプレッシャーが背景にあったのだろう。ここでいう「越える」ということも、クラシックの傍系全体から俯瞰すれば、まさしく「進化」といって良いものだったように思われる。
◆ 2005.10.03 Mon

コメディとしての政治

コメディとして政治を観るならば、今が一番面白いかもしれない。

でもそこが正に「落とし穴」であり、僕はそこに危険な香りを感じ取っている。まぁ、その話は後でしよう。あわてない、あわてない。(懐かしいぞ、一休さん!)

まずは、あるニュースサイトに掲載されていた記事を引用してみたいと思う。

自民党の大仁田厚参院議員(47)が、なにかとお騒がせの杉村太蔵衆院議員(26)の教育係りに名乗り出た。今月23日投開票の参院神奈川補選に向け、一緒に選挙運動で汗をかこうと呼びかける考えで、これを通じて教育しようというわけだ。ひんしゅく発言を繰り返して批判を浴びた杉村氏は謝罪会見をしたばかりだが、大仁田氏は「党執行部の“あやつり人形になるな」と激。自民党執行部にとって、“大仁田学校”は新たな頭痛の種になりそうだ。

「若いのがペラペラしゃべっているなあ、くらいにしか思っていなかった」  杉村氏に対して、当初はこの程度の印象しか抱いていなかったという大仁田氏。

だが、そんな大仁田氏のハートに火がついたのは、特別国会が召集された先月21日のこと。ある自民党幹部に「杉村氏はかわいそうだ。もう次の選挙はないな」と話しかけると、「大丈夫。次はニートの代表で参院選にチャレンジさせるから」と漏らしたのだ。

この発言に大仁田氏は激怒、「参院をなめるな」との思いを強め、杉村氏の教育係を買って出ようと模索。

こうした中、「料亭に行ってみたい」などとのひんしゅく発言を繰り返していた杉村氏は、9月27日に謝罪会見を実施。メモを見ながら歯切れの悪い発言に終始する姿を見た大仁田氏は、「原稿を読んだらダメ。執行部教育係の言いなりみたいな答弁は止めた方いい。型にはまったら、良さはなくなる」などと“同情心”も芽生え、「執行部が政治的教育係なら、おれが精神の教育係になる」と決意したという。

大仁田氏は、「おれと一緒に神奈川の商店街を回り、ドブ板選挙をしようではないか」と呼び掛ける「激励文」を3日にも杉村氏に渡す予定だ。「いままで『お前はプロレスラーだ』とバカにされながらも辛抱してやってきた。嫌なことも、泥水もすすりながらだ。議員活動では精神的なものが必要だ」と自らの議員生活を振り返る大仁田氏。その「奔放さ」に注目が集まる杉村氏と自らをダブらせているようだが、果たして杉村氏がどのような回答をするのか注目を集めそうだ。

なんだか週間ゴングに載っていそうな記事だ。実際大仁田はプロレスラーだし、是非とも二人でタッグを組んで意味も無く「ファイヤー!」とか叫んで欲しい。そのまま杉村君がプロレスデビューしたら素敵だ、是非伝説の「ノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチ」に挑戦して欲しい。

なんて下らないことばかり言ってないで、本題に入る事にしよう。

「杉村太蔵議員をどう見るか」、という話題がネット上の色々なところで繰り広げられている。友人と話していても必ずといっていいくらい彼の話題が挙がる、杉村君に対しては様々な意見があるだろうが、僕は良いとか悪いとかではなく、もっと違った視点で見ている。

今回の選挙は、将来の不透明な若年層の多くが初めて投票に足を運んだ選挙だった、そしてそういう若者達が支持したのが自民だった。杉村君は正にそういう若者の一人がそのまま議員になってしまったという状態だなぁ、と思って興味深く見ていたわけだ。

謝罪会見での「政治家らしくなろう」と無理に頑張って、神妙な顔をして形式的な言葉を並べる杉村君の姿は印象的だった。自分の思うことを好き放題に話す彼の姿は早くも消え去った、自民党の上方に説教されまくって完全に磨り減って、大人しくなってしまったという感じ。

「確かに発言も26歳にしては幼稚だなぁと思ったけど、本音言ってたし親近感沸いて良かったのになぁ!」…などと三流コメンテーターのようなことは決して言うまい。僕にとってそんなことはどうでも良くて、僕の中にふと生まれたのは彼が実は自民党の壁として利用される形になってきているのではないかという「懐疑」である。

考えすぎかもしれないが、実際連日マスコミは報道する政治関係のニュースは杉村君の話のオンパレード、これは政治というよりはむしろ芸能的な話題である。つまりメディアが放映したがるような内容を自民がパッケージ化して垂れ流すことによって、結果的にはマスコミが自民に不利な情報を流さなくなるという結果が生まれている。

一見これは結果論のように見えるが、実際アメリカ政府などはこういうことを昔から意図的にやっていたし、自民の広報担当の世耕さん(自民を大勝に導いた陰の仕掛け人)は相当頭のキレる方なので、そのくらいのことはとっくに計算して動いていると思う。マスコミ側に勝手に報道規制を導かせてしまうという非常にクレバーな政治手法だ。

杉村君が次に当選することは出来ないだろう、それは仕方ない。でも同年代の平凡な一人の若者が政治の壁に利用されていると考えるとちょっとやるせない気持ちになってしまう。メディアがそういう点をまったく指摘しないのも微妙だ、視聴率大事だけどさ。日本国民はナメられてます、まぁ実際それに気付かない視聴者も抜けてるけど。

まぁいいや、ふと思ったんだが仮に杉村さんが「元のまま」のスタンスで成長して行ったらハマコーさんみたいなれるかも。是非ハマコーに弟子入りして欲しい!そしてTVタックルに出演する…と。(笑)


Template by まるぼろらいと / ホームページ アフィリエイト レンタルサーバー FC2ブログ