◆ 2006.04.24 Mon

モーツァルトまみれ

最近はモーツァルトばかり聴いている。

別に「2006年はモーツァルト生誕250周年!」とか「α波が出るらしいので。」とか、そんな理由ではない。昔からモーツァルトは聴いていた、しかしこんなにモーツァルトばかり聴いているのは自分でも初めてのことで、なんというか「歳をとったのかなぁ」なんてネガティブなことも考えてしまう。

モーツァルトの作品はなんといっても長調のものが多い、宮廷の音楽はその多くが客人を招いた時に演奏されるから短調の曲は相応しくないし、依頼自体が少なかったのだろう。そのせいもあってか、聴いていると眠くなるとか全部同じような曲に聴こえるとか…要するに「退屈」といわれることが多い。

僕もその言い分はよく分かるし、子供の頃は同じように「退屈」と感じていたのだけれど最近は全くそうでなくなった。根の楽天性が滲み出たようなあの音楽に身を委ねているとなんだか心が暖かくなる、そして数少ない短調の曲はモーツァルトのあまり表立たない陰の部分が垣間見れて面白い。

僕が一番聴いているのはピアノ協奏曲。特に最近のお気に入りは内田光子の独奏、ジェフリー・テイト指揮・イギリス室内管弦楽団の全集。

『ピアノ協奏曲全集』 内田光子(Pf)

モーツァルトのピアコンというとフリードリヒ・グルダの演奏などが非常に有名で幅広く支持されているが、今の僕にはちょっとギラギラしすぎて疲れる。内田の演奏もかなり陶酔した感じは強いのだけれど、軽快なタッチと繊細な音色がとても耳に心地良い。テイトのバックも過度な表現は避けていて、その素直な音作りに好感が持てる。お薦め。

ここからはもっと個人的な話になってしまうが、モーツァルトのピアノ協奏曲の中でも21番に僕は特別な思い入れがある。この曲は全国高校選抜オーケストラの海外公演で演奏した曲で(独奏は僕が後に愛することになるクララ・フリューシュテクだった!)、聴いているだけで当時の色々な思い出が蘇ってくる。特に2楽章を聴いていると未だに涙が零れそうになる。

あの年の海外公演は本当に色々なことがあった。ある素敵なオーボエ奏者との恋愛、縺れに縺れた人間関係、涙ぐみながら飲んだ赤ワインの味…今までの人生の中であんなにも色々なものがヴィヴィッドに感じられた時はなかったと思う。そしてその思い出の全てがこの曲には詰まっている。

人生に疲れたらモーツァルトを聴くと良い、とても落ち着く。
◆ 2006.04.21 Fri

クラヲタを考える

クラシックの熱狂的なファンは「クラヲタ」と呼ばれる。

言うまでもなくこれは「クラシックオタク」の略称である、この呼び名はもともと2ちゃんねるで生まれた言葉だ。そこには蔑称的なニュアンスがいくらか含まれていて、「クラヲタ」という名詞の後にはたいてい枕詞のように「キモい」、「ダサい」といった言葉が連なっている。(無論半分はネタだが…)

そこでふと懐疑、「クラシックとオタク」が結びつくのは何故だろうか?

クラシックはマイナージャンルとは言えないと思う。クラシックに日常で触れる機会は多いし、誰もが知っている曲も多い、その歴史の長さを考慮してもやはりマイナーとは言い難い。当然、サブカルチャーでもカウンターカルチャーでもなく、真っ当なポピュラーカルチャーだ。

このことを考えていく前に「オタク」というものの捉え方には人によって開きがあるので「おたく」の定義を確認しておきたいと思う。

俗に,特定の分野・物事を好み,関連品または関連情報の収集を積極的に行う人。狭義には,アニメーション・ビデオ-ゲーム・アイドルなどのような,やや虚構性の高い世界観を好む人をさす。

(三省堂「デイリー 新語辞典」)



ある種のサブカルチャーに没頭する人間類型を示す言葉である。元の由来は彼ら(彼女ら)が相手に対する呼称を「お宅」としたのが始まり。主な没頭対象として漫画・アニメ・TVゲーム・アイドルなど様々な領域が確認されている。オタク・ヲタクとも表記する。

もとは他称として蔑称の意味合いが濃く、おたくと認定されると対人関係に問題がある偏見されることが通例であったが、現在ではこの語が一般化して、自ら自称したり「オタクであることが誇りである」と思っている者さえ存在する。

また意味が拡大し、マニアと同じ意味で使用され、メインカルチャーの趣味に没頭する者や、職業的に特定の分野に著しく造詣の深い者にまでこの語を当てはめる傾向もある。

(フリー百科事典『Wikipedia』)

「クラシックとオタク」が結びつく理由は、「クラシックが如何…」という話でもないし、Wikipediaにある「また意味が拡大し、マニアと同じ意味で使用され、メインカルチャーの趣味に没頭する者や、職業的に特定の分野に著しく造詣の深い者にまでこの語を当てはめる傾向もある。」という意味の拡大のせいでもない。ただ単に、「クラシックのカテゴリ」が「かっこ悪い人間のカテゴリ」と同居してしているだけなんじゃないかと思う。

…とここまで書いて「昔似たような文章書いた覚えがあるなぁ」と思い、検索してみたら、それはクラシックではなくてアニメの話だった。今改めて読み返してみても意外と的を得ているような気がしたので、以下に引用してみたいと思う。

「アニメ=オタク」の構図を作り出したのは、他でもないオタク自身じゃなかろうか。

半端な「好き」は「わかってない」って捉えてくるおバカは実際多いわけで…そこに壁ができてしまう。良い作品が沢山あるだけに痛い現実だ、クラシックにもそういうおバカが多いけど。

「アニメは子供のものである」という概念もその構図を作った一つの要因と言えるかもしれない。しかし、もともと日本には大人になっても漫画を読むという特殊な文化形態があったし、アニメーションも大人のアニメ的なものが増えてきたので、その概念は今日ではむしろ崩壊し過去のものになりつつある。

押井守さんによる「甲殻機動隊」あたりからその傾向は色濃くなった気がする。哲学感とか人間の葛藤とか…そういう内的要因に満ちていて大人向けの映画は多い。続編である「イノセンス」には「人間とは、魂とは何か」という高度なテーマが織り込まれていて深い。

じゃあ未だにある「アニメ=オタク」のイメージは何故消えないのか?友人とその話してたら、こんな意見が…

基本的にかっこ悪いオタクが多すぎる、眼鏡かけた暗そうな人実際多いし。 「アニメのカテゴリ」が「かっこ悪い人間のカテゴリ」と同居してしまってる。

厳しいしある意味タブーな意見だが、言い得て妙だなーとも思う。

うむ、考えれば考えるほど、「クラヲタ」という言い回しは興味深い。
◆ 2006.04.20 Thu

脳内作曲家

ちょっとした依頼があって久しぶりに作曲をしていた。

サラリと書き上げられるかと思ったけど、依頼された作品の編成がヴァイオリンとトランペットという無茶なものだったので意外と苦労した。結局ヴァイオリンは弦楽四重奏のような響きで、トランペットはメロディ中心になりそう。でもD-Durにしたから弦はそれなりに鳴ると思うんだよなぁ。

この編成でトランペットが伴奏をやるとメロディを食ってしまうので、使い方には中々苦労した。でも基本的にトランペットとヴァイオリンを噛ませるときは、ヴァイオリンの音域を上げることで解決できそうだ。こういう時にオーケストラの知識は作曲に生きるなぁ。

…というかピアノも何もない部屋で五線譜を開き、脳内で作られた音楽を書いているというこの状態。絶対音感により環境を克服しようとするこのたくましさ!(笑)でも実際にこの編成で音に出してみないと、イメージしたバランスで響いてくれるかどうかは分からないのでドキドキだ。

さてと、僕はモーツァルトになれるかな。
◆ 2006.04.18 Tue

文章は自分だけの歌

自分はどうも文章を書き切るのが苦手らしい。

物書きを仕事にしようなどと思ったらこれは致命的な弱点になるとおもう。これはいわゆる「素人」によく見られる性質だと思う、素人がプロの真似をして創作をすると(漫画にしろ小説にしろ)たいていのものは最後まで書き上げられることなく消えていく。

何かを「始める」ことは容易く「終わらせる」ことは難しい、つまりはそういうことなのかもしれない。

しかし文章に関していえば、書き上げられることなく消えてしまう原因は、本来文章の中心に備わっているべき「伝えたいこと」がすっぽ抜けているからだと思う。

そんなことを考えると自分が文章を書くということがいかに不毛な行為であるかに気付く、もうサイト閉めようか思うくらいに打ちのめされそうにもなってしまう。

しかし、そこにも「救い」はある。それは「自分の文章は自分にしか書けない」ということ。(きっとそれは誰にとっても「救い」になり得ることではないだろうか)

面倒なことは考えず「自分の歌」を歌い続ければいい。最近はそんなことを考えながら文章を打っている。
◆ 2006.04.14 Fri

ルフトパウゼ

まろさんこと篠崎史紀氏の本が発売したので早速購入。

「ルフトパウゼ - ウィーンの風に吹かれて」

内容は興味深いものばかりで面白く読ませてもらったが、中でも第一章の「コンマスはオーケストラの主治医」という文章は、コンマスはどのような役割を果たさなければならないのかなどについての綴られており非常にためになる。コンサートマスターをやってる人は必見である。

なかでもまろさんの師でもあるウィーンフィルの名コンサートマスター、ゲルハルト・ヘッツェルについての文章を読んで改めて「ヘッツェルって偉大だなぁ」と思った。

それから第二章の「マロのN響指揮者論」も、プロの目から見た指揮者の姿が生々しく書かれていて面白い。第五章の「音楽教育について思うこと」の内容は、全ての教育に携わる人間に読んでいただきたいような意義深い内容である。

厳しさで締め付けるあまり「個性」の芽を紡ぎ取ってしまうような教育観念が日本にはまだ色濃く残っている、同じようなことをまろさんが考えていると知ってちょっと心強くなった。

彼は九州男児にしてヤクザの息子であり、青年期からの長い期間をウィーンで過ごしたウィーンっ子でもあるという、面白い二面性をもっている。一人の芸術家として、そしてなにより一人の人間として本当に素敵な方だと思う。

僕のヴァイオリンのDNAの大半は彼に教わったことといっても過言ではない、僕にとっては永遠の師匠であり、これからも憧れの人であり続けるんだと思う。

興味の沸いた方は是非読んでみて欲しい。
◆ 2006.04.03 Mon

藤田嗣治について

今日は「藤田嗣治展」を観てきた。

藤田嗣治(ふじた つぐはる 1886-1968)は東京都出身の画家で。現在においても、フランスパリにおいて最も有名な日本人画家なのだという。もっとも彼は1950年代にはフランス国籍を取得し、カトリックの洗礼を受けて名前をLeonard Foujitaに変えているので、フランスに心酔しやがてその身を委ねたといっていいのだろう。

なんといっても今回の作品展の見所は、藤田嗣治の全時代の作品が網羅されているということだろう。彼の作品は殆どが、個人蔵であったり、フランスやベルギーの美術館に所蔵されているので、こうやって100点以上の作品を一同に見れるの機会は滅多にない。もしかすると、これが最初で最後になってもおかしくないだろう。

パリへ渡る前後の時代の作品は自分の作風を追求して試行錯誤している感じが滲み出ていて、そこには「迷い」というべきものが感じられた。指をいびつなほど長く描くところに個性は見出せるが、それでも「展覧会をみる四人の娘」などは藤田の作品にはどうしてもみえない。

しかしエコール・ド・パリ時代に差し掛かり、乳白色が印象的な裸婦像を描き始める頃からは徐々に自分の世界というべきものを作り上げられていて、引きつけられた。「ダビスリーの裸婦」などは、遠くから見ると傍らにいる猫と裸婦の髪の毛しか見えないほどの白さである。

中南米を周遊していた頃の作品は赤を印象的に使った力強い画風が印象的だった。日本へ帰国した時期の作品は、正に異文化的価値観から見た日本の姿が描かれいる。そこには外国人が憧憬と共に見つめる異国情緒というべきものがあり、なんとも不思議な雰囲気が漂っていた。

やがて戦争が始まり、戦争画を書くようになると彼の作風はまたもガラリと変わってしまう。その無彩色を散りばめたキャンバスの中にまるで亡霊のように黒く塗り込められた戦士の姿に戦慄を覚えた、これは戦争画とはいってもそれを安直に賛美したものではなく、厭戦的なメッセージが込められているように感じた。

そして、戦後再びフランスへ渡った後の作品が僕は一番好きだ。まるで人形のような子どもたち(どこか奈良美智さんの絵に似ている気がするのは僕だけだろうか…)と、宗教画の数々。その色彩感覚とデフォルメは現代のポップアートに通ずるような雰囲気があり、「アージェ・メカニック」などはまったく古臭さを感じさせないから凄い。

一人の日本人とフランス文化との鮮烈な出会いが生み出した、素敵な作品の数々に触れて久しぶりに心が躍った。良い一日だった。


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