◆ 2006.05.24 Wed

美輪さま / 研究者の資質

ひょんなことから「創造的人格」という観点から美輪明宏を研究をすることになって、色々と資料や文献をあたっている。といってもグループワークなので一人でやってるわけではないんだけど、例の如くやや先走り気味。正直、みんな頭悪くて使えないんだもの。

一般の大多数の人にとっては「もののけ姫の声優で名前が知れて、オーラの泉でブレイクした変な格好した人」といった程度の認識な美輪さんだが彼の人生はなかなか面白い。長崎原爆の体験談も生々しいし、人生の辛酸を舐めきった人なんだということがよくわかる。

彼の言動は達観しているし、現世離れしたようなニュアンスがあるので。自意識が高く好き嫌いが多い人のようにも思われがちだが、彼のあの幼少期からのリアルな経験を踏まえて改めて彼の発言を追っていくと全然違った分析が出来てこれがなかなか面白い。

プレゼンテーションに向けて作業を進めていくにあたって、まずは構成員に概略と手順を伝えるためにまとめサイトまで作るという凝りっぷり…アホだ。まぁそんな大変じゃないし、研究内容をアーカイブ的にざっと眺められてむしろ便利だから良いんだけど。

ノートパソコンでそれを説明していたら、メンバーの子の一人から…

むしろ、taxiさんが美輪さんに見えてきました。

とかいわれてしまった。どうなんだそれは…。

昔から夢中になったら止まらないん、何に取り組んでも無意識にバカみたいに突き詰めてしまう。教授から「君は研究者向きだ」と言われる所以もそこにあると思う、若い頃はそういわれて嬉しかったけど、今は嬉しくない。

こんな知識の無い人間が研究者になれるわけないだろ!ばか…。



上の記事に対してこんなコメントをいただいた。

いやいや研究者の資質って「知識」じゃないですよ。言うなれば、パッション(情熱そして受難の二重の意味での!)さえあれば研究者として充分やっていける、と思います。熱を持続させられれば、頭の良し悪しなど関係なく良い研究ができるような気がします。

―― パッションが二重の意味を持っているわけですよ。研究という苦痛を伴う《受難》の果てに《快楽》が待っている、という。大変マゾヒスティックな解釈ではありますけれど(しかもたぶんパッションに《快楽》という意味は無い。超訳)。

先輩が研究者、さらに大学の教員になったらさぞかし楽しい講義が受けられるでしょうね。まさに知と性の饗宴。そしてファロスとしての象徴的なペンの権力!アナール学派!!

後半の言い回しが面白すぎてつい全部引用してしまった。(笑)

パッション…確かにそうなのかもしれない。知識は外側から入れれば入るけど情熱は内側から生まれないことにはどうにもならない。どんなものにおいても「熱」は時間と共に次第に冷めていくものだ。(まるで男女の恋愛関係!夫は私をもう「女」としては見てくれない!!)

僕は(きっと多くの人がそうであるように)突き詰めた先に快楽・悦楽のあるものにしかパッションを見だせない気がする。音楽的パッションであったり、セクシャルなパッションであったり…或いは「趣味的」だったり「本能的」なものといった方が良いのかも。

どんな研究者も教授さんも本質的にはマゾヒスティックなんだろうなぁと思う。しかも現実眼前の人間との関係におけるマゾではなく、自分と学問の間にその関係が発生しているというのがポイントかもしれない、勿論例外は沢山あると思うんだけど。

そんなことをつらつらと考えてくると、世の中の研究者が皆裏で申し合わせたようにエキセントリックな理由もなんとなくわかる。(笑)
◆ 2006.05.17 Wed

超ギャル論

最近、期せずしてギャルの友達ができた。

ギャルというと、自分が高校生になったときに中学時代に可愛かった子がどんどんギャル化していったのが妙に悲しかったのを覚えている。こういう書き方をすると僕がギャル系の女性にたいして抵抗を持っているようにみえるだろう。

確かに昔は少なからず抵抗をもっていたが、今ではむしろ憧れるようになってしまった。友人とギャルだけのオーケストラを作ろうかと話し合ったくらいだ、ちなみにその時決めた名前は「アルバローザ管弦楽団」だったっけ。(笑)

僕は彼女達を目にするたびまるでオーストラリアでアボリジニーと出会った時のような、そんな「プリミティブな存在」と巡りあうような衝動を覚える。実際にはプリミティブどころか現代的なスタイルであって、そう考えると些か奇妙な話になってしまうが…。

要するに普段の生活領域にいないギャルという存在に、僕は強い好奇心と憧憬を抱いているのだ。確かにヴァイオリン弾いてるギャルってのは中々いない。(そしてギャルオケの妄想もあえなく崩れ去った…)

ギャルと一言にいっても実に様々な人間がいる。バッチリ決まってるクールなギャルから、それになりきれてない上にセンスの悪いギャルまで幅広い。しかし僕の価値観おいては後者のような中途半端なギャルは「ギャル」として認識していないので、ここではクールな「ギャル」に限定した話をしたい。もっというとあくまで僕と接点をもった一部のギャルについての考察なので、一般論ではない。その点は御了承いただきたい。



…と前提論を丁寧に並べておいて、好き放題書かせてもらおう。ぐふふ。

僕が実際にギャルと接してみて気付いたのは、彼女達は自分のファッションやスタイルを意外なほど「客観的」に捉えていること。

つまりそれは作為的に作られている仮面のようなものであり、ギャルという類型に周りから向けられる視線と同時に期待される役割やキャラクターを客観的に捉えながら生きているということだ。

ごく控えめにいって「ギャル」の風貌は社会的にあまり良い見方がされないし、見た目がギャルというだけでコミュニケーションを拒絶する人も少なくない。しかし前に記したように彼女らは「作為的に」自分達をその立場においているのだ。それはなぜだろう、その「代償」として得られるものが一体なんであるのかについて僕は考えてみた。

それは1つに、「強烈な個性の獲得」ではないかと僕は考えた、確かにギャルというのは個性的な存在であると思う。しかしもっと考えを深めていくと、一見個性的ではあっても大きい見方をすれば、「ギャル」というカテゴリに含まれたに過ぎない。実際にギャル系の子は無意識に同じ系統の子と仲良くなって集団を形成していることが多い、そうなると個性としてはやや弱いのだ。

しかしカテゴリという考え方を糸口に考えていくと、ギャルになることの一番の代償はその「カテゴリ」に足を踏み入れコミュニケーションを図る「権利の獲得」であるように思えてきた。そういう「個性的な類型」に自分が含まれることの気持ち良さや安心感というのはなんとなく想像できるし、実際彼女達は「ギャル」というレッテルを心のよりどころにして自分を開放し、人生を心から楽しんでいるように思う。

そしてその「開放的でドラマティックな生き方」は、僕の理想とする人生観にぴたりと符合するのだ。そう考えてくると僕が彼女達に憧憬を抱いていた理由もはっきりしてくる。

このように考えると、僕は「なんとなく」ギャルになっている人間にではなく、ちゃんと客観的な視野を持っていて人間的にクレバーな「ギャル」に憧れていると言って良いと思う。そういうギャルを、勝手に「超ギャル」と命名することにしよう。

そして、ここからは「超ギャル」の中身について話していきたい。

ここからのキーワードは「ギャップ」である、「超ギャル」は脳みそすっからかんなギャルとは違いとても思慮深く分別があり、なにより「大人」である。開放的に人生を楽しんでいても、その外側には常に自分の現在地点を客観的に理解するための視野を持っているので周りに迷惑をかけだりは絶対にしないのだ。

電車の中での出来事。ギャルの子が目の前の老人に席を譲る。老人はキョトンとしたまましばらく呆然と立ち尽くししていたが、すぐに我に返って「あ、ありがとう。」といって満面の笑みで席に座る。

その光景の一部始終を目の前にして僕は妙にときめいた。それが周りの持っている「ギャル」へのステレオタイプ(≒偏見・差別)と「超ギャル」の実態の間にあるギャップの面白さに初めて気付いた瞬間だった。

言うまでもなく、「ギャル」は周りからある似通ったステレオタイプを向けられ「対象化」される機会が多い(それはある種の「社会的な監視」のようにも思える)。

だからこそ、頭の良い「超ギャル」は「自分はどのような行動をすれば良いか」や、「自分は今周りからどのように見られているか」を普通の人間以上に注意深く意識するようになるのだと僕は考えている。

実際に僕のギャルの友達と話していても、それを強く感じる瞬間が多かった。

「親は大事にしないとね、世界に一人しかいないんだからさ。」

「本読まないやつはさ、生き方が薄っぺらいよね。」

「”自分だけ楽しけりゃ良い”とはいうけど、そういう状態って大抵はその人自身も心から楽しめてないと思う。多分ね。」

彼女と長々と色々な話していて印象的だった発言を引用してみた。彼女は見た目はコテコテのギャルでもバリバリの進学校出身だし、ギャルというカテゴリではむしろマイノリティに入ってしまうのかもしれない。しかし世の中にはこんな素敵なギャルもいるということを、僕は世間に声を大にして訴えたいと思う。

話を飛躍させれば、「差別」というものは、その殆どが「森を見て木を見ない」発想から生まれているのだと思う。「木を見て森を見る」、この発想はどんなもの認識する場合においても忘れたくないものだ。自分の感受できるフィールドに自ら線を引いてしまっては、認識できる世界がどんどん狭くなっていくだけだ。

何だかレポート風な文章になってきたのでやめる。あの子がこのサイトを見つけてないことを祈りながら、ドキドキ。
◆ 2006.05.15 Mon

太田光という男

僕はお笑い芸人の中では爆笑問題の太田光が一番好きだ。

シュールな関東系の笑いを完成されたスタイルで示してくれた最初の人物と言って良いのではないかと思う。彼の魅力は単に「面白い」という表面的な言葉には納まらない、トークにしろネタにしろ全てが知性に裏打ちされたものであるところに本当の彼の魅力があるのではないかと僕は考える。

実際に、彼は大変な読書家だそうで、年100冊以上のペースで本を読むのだそうだ。好きな作家もヴォネガット、アーヴィング、サリンジャー、カポーティ、太宰治、宮沢賢治、島崎藤村、向田邦子…という感じ。彼のあの良い意味で芸人離れした含蓄は、この読書量に裏打ちされたものといって良いのだろう。

彼が良い意味で異彩を放っている理由は笑いの「ナチュラルさ」にあると思う。それは私たちの一般的な会話の中にも出てくるような、毒づいた話題やシュールな話題に通ずるようなところがある。無理矢理に笑わせようとはせず自然に笑わせているというところが大きなポイントだ。

テレビを観ていていつも思うのだが、芸人には「肉体的な笑い」のタイプと「論理的な笑い」のタイプの二つに明確にカテゴライズできると思う。正直にいって僕は前者の笑いが好きになれない、芸が一本調子だったり勢い任せだったりするためにすぐに飽きてしまうのだ。芸人として薄っぺらいように感じる。

田中とコンビでコントを繰り広げる太田、バラエティー番組でシュールな司会をつとめている太田、NHK教育の番組で向田邦子について熱く語る太田、どのシーンにおいてもその根底には透徹した価値観があるのだ。その変幻自在でありながら、一本筋が通っているところに僕は強い魅力を感じる。

その変幻自在で無軌道なボケにツッコミを入れ続ける、「変わらない田中」の存在がその太田へのアンチテーゼとしてまた重要なファクターであるという点も見逃せない。「田中裕二不要論」を大真面目に口にする人は、爆笑問題の本質を捉え切れてないと思う。稚拙だ。
◆ 2006.05.12 Fri

聴衆が音楽家を育てる

クラシック音楽を広く面白く世間に浸透させた「のだめカンタービレ」。

この漫画については過去にも書いてきたのでなんとなく今更という感じもするが、今回書きたいのは「のだめカンタービレ」そのものについてではなくて、それにより僕の身の回りに起きてきている「変化」だ。

今までまったくクラシックを聴かなかったような友人から「のだめ読んでクラシック聴きたいなぁと思ったんだけどなんかおすすめない?」といった質問を受けることが非常に増えてきている。

驚くべき「のだめ効果」。たった一つの漫画がクラシックの長い歴史とともに作られてきた壁をいとも容易く打ち破りつつあるのである、喜ばしいことだと思う。

しかし、同時に感じるのはそういう人たちを受け入れるクラシック環境の悪さである。のだめの企画で出されるCDの演奏クオリティの低さ、あのブラームスの交響曲第1番のちぐはぐな解釈、バランスの悪さはどうだろう…ああいうヒドイ演奏でクラシックに興味を持った人間を迎えるというのはあんまりだと僕は思っている。

おまけにCD屋もこれだけクラシックが注目されているのに陳列に工夫が感じられない、あれではクラシック初心者の方が劣悪な演奏を買ってしまってもおかしくない。(極端な言い方だがクラシックには「買ってはいけないCD」というものが少なからず存在していると思う)

その結果、クラシックの聴衆のレベルは確実に落ちていると思う。大した実力のない音楽家がチヤホヤされてしまうし、ヒドイ演奏を聴いても何も感じないようなぶっ壊れた感覚を持っている人が多い。

それは演奏の世界でも同じで、そういう耳を持っている人は自分の音や周りの音を聴く感覚に乏しく、そういう意味でいわゆるセンスの無い演奏家が増えているように思う。実際に「学指揮」はじめ学生オケをまとめる人間のポテンシャルはガタ落ちなのである。

クラシックは言ってみれば同じ曲を色んな人が「カヴァー」しているわけだ、それだけに同じ曲でも演奏家によって解釈もクオリティも大きく違ってくる。

これはクラシック以外の音楽に置き換えて考えると分かりやすい、たとえばサザンオールスターズの曲を「桑田圭佑」が歌うのと、「桑田圭佑のモノマネをした一般人」が歌うのは同じ曲で雰囲気も似ていてもクオリティとしては雲泥の差が出てくるだろう。

クラシックにも演奏によってそのくらい大きな違いがあるのだ、それの違いを感じることが出来ないということがいかに不自然なのかがおわかりいただけるだろうか。

なにより聴衆のレヴェルに影響を一番受けるのはプロの音楽家である。聴衆がしっかりとした味覚をもって音楽を評価しないとプロのインセンティブそのものが無くなってしまうのだ、「何をやっても同じ」という感覚が演奏家サイドに生まれてしまったら芸術としての存在意義そのものが揺らいでしまう。

良い演奏を作り出すのは演奏家自身でも、それを正当に評価し本当に良い演奏家を残していくのは聴衆であると僕は考えている。そういうわけで、メディアには「聴衆を育てる」という視点を常に持ち続けてほしいと思う、このまたとない機会を単なる「クラシックのポップス化」の危機にはしてほしくない。

聴衆が音楽家を育てる」のは、昔も今もこれからも変わらないと思う。
◆ 2006.05.05 Fri

ロックな母 / まろまろ美容院

今日はおかんとデート。ご飯を食べた。

俺に里帰りされるよりも、自分が東京行って遊びたいと思ってしまう母はやっぱりGWも東京に来ちゃう、相変わらずやることが大胆。ハードボイルド母。午前中は銀座で楽譜を買っていたとのこと、最近本格的にクラリネットを再開したらしい。是非プロを目指してほしいところだ。

僕にとって「家族」はいつの時代も一番の平穏の場所だ、そんなことをふと考えた。父さんが亡くなってからますます絆は強くなり、僕は家族が前よりも好きになった。危機は機会になる…つまりはそういうことだろう。

今日のテーマは「フォアグラとトリュフの幸せな結婚」としていたが、前日に友人と焼肉をたらふく食べたばかりでダメージが残っていたので断念。薄味のものにしようということになり結局は京懐石を食べた、魚が美味かった。やっぱり日本人なら魚だ!フィッシュ!

その後は眼鏡屋に行って二人でデカサングラスを購入、グラサンをかけた母はすっかりチョイ悪マダム、僕もそれに続けとチョイ悪青年に変身、そんなこんなで奇妙な親子が街を闊歩。ハードボイルド親子。通行人がどんどん道を開けてくれるので歩きやすかった。(笑)

その後は喫茶店でコーヒーを飲みながらお喋り、彼女の仕事の愚痴を聞き「そんな奴クビにしちまえ!」なんて僕が切り捨てる。僕がずっと続いていた彼女と友達に戻ったことを言ったら、「色んな人と付き合った方が人間大きくなるよ」と励まされた。ロックだ。

おかんと別れた後は、代官山へ髪を切りに行く。

ここ最近ずっと「髪切りたい!」と口癖のように言っていた自分にとっては待望の美容院。美容院に例のサングラスをしたまま入ったら、いつも僕を担当してくれているTさんが「おお!セレブチック!」と開口一番。僕は「ちょっと自分の殻を破りたくて、今年はワールドカップだから。」とシュールな答え。いっつもこんな感じである。

そしてオーダー、相変らず僕は何も考えてきて無い。

Tさん:「さて今日はどうしよっか?」

僕:「…ディアボラ風で。

Tさん:「…え?」

髪型をどうしようか僕の頭にふと浮かんだのは、サイゼリアの定番メニュー「ディアボラ風ハンバーグ」だった。やばい、そのまま口に出してしまった。結局は短くしてピンパーマをかけることに、色は明るめの赤茶にした。これでさっきのグラサンかけたらますますイカツくなることは間違いない、どきどき。

いつもシャンプーしてくれるお兄さんから聞いた話だがこの店には最近、なんとあのN響のコンマスにして僕のヴァイオリンの父(笑)である篠崎史紀(マロ)さんが来店しているらしい!なんという偶然だろう、予想もしないところからその名前がでてきて本当に驚いた。

僕:「篠崎さんの第一印象、どんな感じのでした?」

お兄さん:「うーん…なんか体大きくてイカツくて、極道って感じでした。」

僕:「篠崎さんのおじいさんは本当にその世界の人でしたからねぇ。

お兄さん:「え!まじすか?知らなかったぁ。」

やっぱりそこまでは知らなかったようだ。お兄さんの焦りっぷりが面白かった、でも実際マロさん自身は非常にジェントルマンだし仁義のあるとってもいい人である。なんでもこないだは髪のもみ上げの上の辺りを紫に染めていったらしい、相変らず個性的でお洒落なマロさんは健在なようだ。素敵。

というわけで近々遭遇しちゃうかも、どきどき。


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