◆ 2006.12.20 Wed

立場に縛られて…

今日は女々しい。しかし女々しいのはこれを持ってキッパリ終わらせよう。

先週今週と立て続けに異性に告白された、年末だしクリスマス前だしそういう時期なのかもしれない。どちらも結果的には断ったのだが、キッパリと物を言えなかった上に、後から釈然としないモヤモヤが残るというなんとも中途半端な状態になってしまっている。相手にも申し訳なかった。はぁ。

何故こうなってしまうのか考えていたらその中身はシンプルで、淋しいからだと気付いてしまった。なんという悲劇!ずっと無視していたその感覚が今さら蘇ってしまった。

本能的に生きることを抑え続けたことの弊害というべきものか。色々なネジがパンッと音を立てて外れる外れる…。

誰かのためにバランスとったり、本音を隠したり、八方美人になったり…時々疲れてしまう、バカらしくなる。それを良いことに調子に乗って我儘を通したり、勝手なこと言ってくる人間に本気で怒りたくもなる。

でも僕は立場上できないことが多い。「立場」に縛られて生きるのは辛い、時々本当に辛い…。

いずれにしろ、ここを一回休みのコマにしてはいけない、誰かがサイコロを振るまで動けないような他動的な人生にしてはいけないんだ。誰かのために誰かが作り出したルールを破ってでも、自分からサイコロを振らなければ。

…あれ、サイコロどこにやったっけ?部屋が散らかってて見つからん。(笑)

とりあえず振り出しに戻って部屋を片付けます。ふふ。
◆ 2006.12.20 Wed

映画「クリムト」

映画「クリムト」を観た。

クリムトは大好きな画家の一人で、今でも実際の作品に触れた時の感動を昨日のことのように覚えている。色んな人から一緒に行こうと誘われたのだが、結局は一緒に4回もオーストリアに行った長い付き合いの子と観に行った。

いや、この映画は絶対に「この人」と観なければならないと思った。

「クリムトのバックグラウンドを知らない人にはわけわかんないだろうね…」なんて言いながら観てたっけ、この作品は精神面にスポットを当てた内容でクリムトの入門ドキュメンタリーのようなものを期待する人は観ない方が良いと思う。彼の作品のみならず彼の人生を深く知る人にしか響かないマニア向けの映画だ。

「ファム・ファタル」としてのレアを追い求めるクリムト、現実と幻想をつなぐ実体のない書記官、妻ミディに向けるプラトニックな感情とモデルに向ける肉欲の対比。僕はこういう狂気に満ちた映画が嫌いじゃない、音楽も映画も非現実の世界に連れて行ってくれなきゃ嫌なんだよね。

というわけでこれから観る人はとりあえずジル・ネレーのクリムトの解説本でも読んでから観ることをおすすめしたい。
◆ 2006.12.18 Mon

常識的なテンポとは?

のだめちゃんのラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の演奏が笑っちゃうくらい速いの!

そんなことを友人に言われて、なんだか気になったのでどんなものかチェックしてみた。結論から言うとそんなに笑うほど変だと思わなかった。たとえばスティーヴン・ハフも自分の解釈を深めた結果としてやはり速めのテンポをとっているし、実際低音の鐘のような響きを中心に全体を考えればこういう解釈も納得できる。

 「スティーブン・ハフ」(3分55秒あたりを聴いて欲しい)



そもそも、みんながよく口にしている「常識的なテンポ」って誰が決めたんだろうと思う。

ベートーヴェンのピアノソナタ第29番みたいに未だに指定テンポで弾ける人が誰もいない曲もあるし(まぁあれはベートーヴェンのミスか、或いは未来に期待しすぎた結果だけど…)、結局は演奏者(指揮者)が決めるものだ。

とりわけラフマはコテコテにロマンチックな作品だから、速めのテンポで演奏しても絵になるんだろうなと思う。速いテンポで演奏することで和声どうしの関係性が明快に見える点も見逃せないし、音楽の爽やかさとか切れ味を作る要素としても速めのテンポをとるということは1つの「常識的な選択」としてそれ自体成立したものだと僕は思う。

結局僕が言いたかったことは、「速い演奏」というものが誤解されてるんじゃないかということ。少なくとも「名人芸」を披露するために速弾きしている人なんて今どきいないし(いまや10歳くらいの子供がパガニーニ弾いちゃう時代だもの)。或いは「速い演奏=強引に弾き飛ばしてる」と即決め付けてしまうステレオタイプもあるのかもしれない。
◆ 2006.12.10 Sun

心を揺さぶる演奏

朝からクライバーのベト7の終楽章聴いてたらテンション上がってきた、音が喜んでるね。

あるプロの演奏家の方が「あの演奏は縦が全然合ってないよ、でもそれを犠牲にして余りある結果が出ているね。お客さんも演奏者も楽しんでるのが伝わってくる。完敗だよ。」なんて言ってた。

 「Carlos Kleiber - Beethoven symphony #7 mov.4」



ベト7といえば、最近のだめ影響でクラシックを聴き始めた友人に何気なくクライバーのベト7を聴かせたら半泣きみたいになって「この演奏すごい…全然違うね!」と稲妻に打たれたかのような感動を訴えていて、予想していなかったその子の反応にとても驚いた。

こういう「処女的な感動」とでもいうべきものを忘れてしまっていたような気がして、ちょっと反省もしてみたり。そしてジャンル問わずビギナーの人にこそ良い音楽を聴かせなければならないのだと思った、人間の味覚と同じように最初に触れた演奏が音楽感のベースになっていく部分は少なからずあるような気がする。

別に某コーヒーCMのように「違いのわかる人間」にだれもがなれば良いというわけではなくて、どうせ音楽に自分から興味を持って触れるなら感動したほうが良い人生じゃない!ということだ。生活の傍らにひっそりとたたずむBGMならなんでも良い気もするけど、音楽そのものとがっぷり四つで組むなら感動しなきゃ損だ。くどい言い回しになってしまった。

僕が一番最初にクラシックに泣くほど感動したのは高校1年の時に福島で聴いたケント・ナガノ指揮、ベルリン・ドイツ交響楽団の演奏会だったな。メインがブラームスの1番でそれが素晴らしい演奏だった、家に帰る時に、自転車をこぎながらわけもわからず半べそかいてた。変な高校生。

あれは片田舎の北国少年が、クラシックという名のちょっと人見知りだけど魅力的な女性に恋をした瞬間だ。人間というのは本当に心が揺り動かされると認識が追い付かず軽い「混乱状態」に陥る、言いようの無いカタルシスを感じながら。

クラシックに教養主義的な一面はあるけど、音楽は知識で聴くものじゃないね。
◆ 2006.12.08 Fri

マリオ・ブルネロについて

マリオ・ブルネロのチェロに夢中だ。

ソリストとしてもかなり有名な方なので、チェロ弾きなら知っている人も多いかと。アバド指揮&ルツェルン祝祭管のリハを聴きに言った時にチェロトップを務めていた、ポリーニ独奏でブラームスのピアコン2番のリハーサルをやっていた時に僕は彼の音色の虜になった。

ピアコンの3楽章にはチェロ独奏があって、その音色・歌い方の美しさといったらなかった!今にも溶けそうな音色といえば良いのか、サントリーホールの音響のせいもあるのだろうけれど。たった一本のチェロにあそこまでメロメロにされるとは思わなかった。

ソロが終わった後にポリーニが感激して拍手をし、それにつられるようにアバド始め楽員のみなが拍手をしてしまっていたのも印象的だった。あれはプロの感覚でいってもまさしく絶品の音楽だと思う。客席からも思わず拍手が起こっていた、思い出深いエピソード。

興味の沸いた人はブラームスのチェロソナタなんかから聴き始めるのがオススメだと思う、曲の良さとかそういうものを越えてチェロの「音」だけで人の心を鷲掴みに出来る数少ない演奏家の一人といって良いと思う。

興味のあるかたは是非。
◆ 2006.12.08 Fri

日本のシュールな笑い

海外のバラエティのわざと臭いオーディエンスの笑い声が苦手だ。

これおもしろいよな?ここ笑うところだよな?」って確認しあってるみたいだ、そんなに自分の感覚が不安なのか?(笑)

アメリカの人に「シュールな笑い」の哲学とでもいうべきものを叩き込みたい。日本の「シュールな笑い」という文化(あえて「文化」と呼ばせていただく)は日本人の独特の繊細な感性に裏打ちされたものだと勝手に思っている。

大味な笑いが嫌いだ。ボケとツッコミの予定調和で出来た関西発の笑いはその意味では時々凄く大味なんだけれど、これはモノによるかな。そういう意味でも僕は太田光という一人の芸人に大いなる期待を寄せているのだ。

「ボケ倒す」という行為は、それをツッコミで元の場所に修正せずにそのままにしておくという「曖昧の美」とでも言う感覚が眠っていると思う。「爆笑問題には田中というツッコミ役がいるじゃないか!」と言う人がいると思う、でもそれは爆笑問題の認識そのものの誤解だ。

過去に書いた記事の一文をここに引用しよう

…その変幻自在で無軌道なボケにツッコミを入れ続ける、
「変わらない田中」の存在がその太田へのアンチテーゼとしてまた重要なファクターであるという点も見逃せない。「田中裕二不要論」を大真面目に口にする人は、爆笑問題の本質を捉え切れてないと思う。稚拙だ。

結論から言って田中のツッコミは本質的に修正できていないので「ツッコミ」ではない、「変わらない田中」という存在だけがただそこにある。この「変わらない人間」という存在は、Mrビーンでいうところの通行人始め一般人に近いだろうか、つまり「私たち」の代替的な存在なのだ。

シュールな面白さを決める決定的な要因は、それを受け止める「常識的な人間・一般的な人間」のアンチ・テーゼ的な存在であり。田中は僕たちに変わってその存在を担っている、といって良いのだ。

…なんだか爆笑問題で薄っぺらい論文が一本書けそうな気がしてきた。
◆ 2006.12.06 Wed

夢から覚めたマエストロ

ペンギンと温泉に入る夢を見た。

最初はバタバタ動き回っていて、「野生というのは節操のかけらもないな」と思っていたのに。一緒にお湯に浸かったらペンギンにいきなり「人間は快楽のために生きてこそだ、君だって死ぬんだろ」と説かれました。なんて人間的な動物なんだろう!わけがわからなかった、困惑の目覚めだった。

そう、早めに寝るようになってから、よく変な夢を見るようになった。そのうち現実の世界と夢の世界が逆転して、夢の世界で眠った時にしか現実の世界に戻ってこれなくなってしまうんじゃなかろうかと不安にもなる。戻れなくならないよう、これから夢を見たときは書き留めることで客観的に区別していくことにしよう。

夢といえばドビュッシーの「夢(Reverie)」という曲が好きだ、夢の世界があんな美しい音楽の鳴り響くような場所だったら僕は戻って来れなくなっても良いなと思う。危険な思想だな。

最近はよくプロオケのリハを見学している。いつものことながら指揮者の皆さんがペコペコしているのが印象的だ。なんであんなに申し訳なそうにリハをやるのか?と聞けば、答えて曰く、「そりゃあ、給料を演奏者の何倍も貰っているからだよ(笑)」というなんとも悲しく現実的な答え。

怒る指揮者がいなくなった」という前に書いた記事の謎もここで一気に氷解である。演奏者の気持ちもわかるけど、そんなことをしていて本当に過去の巨匠たちが作ったような音楽が生まれるのかはよくわからない。でもそれが現代社会というものなのかもしれない。

難しい、「社会性のある音楽活動…それって果して"芸術"なのだろうか?」と思うとどんどんわからなくなっていく。それはきっと過去の偉大な芸術家の誰もが、狂気ぎりぎりの危ない世界で戦っていた姿があらゆる書物や作品に残っているのを「この目」で見ているからに違いない。

昔の芸術家は冒頭に書いた「夢の世界」から戻って来れなくなってしまった人なのかもしれない。そう考えていると、夢の世界で一緒に温泉に入ったあのペンギンもそんな芸術家の一人だったのかもしれない、とさえ考えてしまう。あのペンギンは幸福なのだろうか、不幸なのだろうか?…わからない。

そんなことを考える朝でした。終わり。


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