◆ 2007.02.23 Fri
シャイーのシューマンに想う
シャイーのシューマンを買ってみた。
シャイーというと若い頃のロッシーニに代表されるイタリア物がとても良かったのと、コンセルトへボウとDECCAに残した数々の録音が思い浮かぶ。とりわけマーラーの交響曲チクルスや、シェエラザードなどの演奏が好きだった。
まぁ最近の演奏は録音技術の発達のせいなのか、鋭さがあってシンフォニックな響きのあるものが多いので、「音質の良さ」にやられてるようなところは大いにあるような気がするのだけど。(笑)
日比谷公会堂(*1)など歴史の古いホールで聴くオケの音は、昔の録音に聴かれるような生音感の強いものでアナログな印象を受ける。一方で、比較的現代に造られたホールの音は、今日のCDに聴かれるようなような響きのあるシンフォニックな音がするわけだ。
「それは最近のホールが響くのだから録音もそうなるに決まってる」といわれれば、それはその通りなんだけど。なにか音響技術の発展に伴って「音の価値観」というものが少しずつ変わってきたのではないか、などとふと考えることがある。
話を戻そう。僕はシューマンが基本的に好きで、CDもかなりの数を所有しているのだけれど、そんな中でCDを買った一番の理由はこの演奏が「マーラー編曲版」であること。クラシックが好きな方はご存知のことと思うが、シューマンの交響曲はそのオーケストレーションの難を指摘され、昔から指揮者によって色々と手を加えられて演奏されてきたという歴史がある。
僕の基本的なスタンスとしてはシノーポリやレニーと似たところがあるのだけど、「シューマンのオーケストレーションが生み出すアンバランスな響きは彼の精神構造そのものだ」と思っており。正直いっていじくり回され、整えられた演奏があまり好みではない。しかし、今回はその食わず嫌い的な自分への自戒と好奇心から購入してみた。
全体的に弱音の使い方が非常に斬新で、良い意味での驚きがあった。飴細工のような繊細さがあり非常にすっきりとした演奏という感じ、その反面、激情的な部分における盛り上がりにはやや物足りなさを感じる。演奏水準としては申し分なく、2番のスケルツォでの弦楽器の硬質の音で粒立たせた16分音符を中心としたアンサンブルの精緻さなどは印象的だった。
なんだか色々なレビューを見ていると「濃いめ」とか「骨太」とかいう評価を見受けたのだが、そう感じる方はよほど淡白なシューマンを聴いてこられた方なのだろうと思う。僕にはむしろそういう言葉からは遠い演奏のように聴こえた。バーンスタインの濃厚に歌いこんだ演奏や、フルトヴェングラーの骨太の演奏などと比較すればの話だが。
オーケストレーションもかなり今まで聴いていたものと違って面白かった、でも僕はやはり今までのエディションの方が好み。従来のエディションに愛着がある以上、客観的な判断は下せないのだけれど。ただ、マーラーのエディションはだいぶ前から存在していたにも関わらず、こうやって定番の交響曲に「新しさ(新鮮さ)」を吹き込むことができるという点は素晴らしいことのように思う。
「再現芸術」という言葉はどうにも退屈なニュアンスが付きまといがちだが、それを感受する聴衆は変わり続けるしその中で「忘却」が弛まなく起こり続けているわけだから、そういった人々が忘れた(或いは知らなかった)ものを再び音にしていきメジャーレーベルからリリースされるということは、非常に意義のあることだと思う。
シャイーの今回の演奏にはそういう意味で評価できる。ありがとう。(謝意)
シューマン/交響曲第2番、第4番
・交響曲第2番 ハ長調 Op.61 (マーラー編曲版)
・歌劇 《ゲノヴェ−ヴァ》 序曲 Op.81
・交響曲第4番 ニ短調 Op.120 (マーラー編曲版)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
リッカルド・シャイー(指揮)
録音:2006年9月、ゲヴァントハウス、ライプツィヒ
シャイーというと若い頃のロッシーニに代表されるイタリア物がとても良かったのと、コンセルトへボウとDECCAに残した数々の録音が思い浮かぶ。とりわけマーラーの交響曲チクルスや、シェエラザードなどの演奏が好きだった。
まぁ最近の演奏は録音技術の発達のせいなのか、鋭さがあってシンフォニックな響きのあるものが多いので、「音質の良さ」にやられてるようなところは大いにあるような気がするのだけど。(笑)
日比谷公会堂(*1)など歴史の古いホールで聴くオケの音は、昔の録音に聴かれるような生音感の強いものでアナログな印象を受ける。一方で、比較的現代に造られたホールの音は、今日のCDに聴かれるようなような響きのあるシンフォニックな音がするわけだ。
「それは最近のホールが響くのだから録音もそうなるに決まってる」といわれれば、それはその通りなんだけど。なにか音響技術の発展に伴って「音の価値観」というものが少しずつ変わってきたのではないか、などとふと考えることがある。
話を戻そう。僕はシューマンが基本的に好きで、CDもかなりの数を所有しているのだけれど、そんな中でCDを買った一番の理由はこの演奏が「マーラー編曲版」であること。クラシックが好きな方はご存知のことと思うが、シューマンの交響曲はそのオーケストレーションの難を指摘され、昔から指揮者によって色々と手を加えられて演奏されてきたという歴史がある。
僕の基本的なスタンスとしてはシノーポリやレニーと似たところがあるのだけど、「シューマンのオーケストレーションが生み出すアンバランスな響きは彼の精神構造そのものだ」と思っており。正直いっていじくり回され、整えられた演奏があまり好みではない。しかし、今回はその食わず嫌い的な自分への自戒と好奇心から購入してみた。
全体的に弱音の使い方が非常に斬新で、良い意味での驚きがあった。飴細工のような繊細さがあり非常にすっきりとした演奏という感じ、その反面、激情的な部分における盛り上がりにはやや物足りなさを感じる。演奏水準としては申し分なく、2番のスケルツォでの弦楽器の硬質の音で粒立たせた16分音符を中心としたアンサンブルの精緻さなどは印象的だった。
なんだか色々なレビューを見ていると「濃いめ」とか「骨太」とかいう評価を見受けたのだが、そう感じる方はよほど淡白なシューマンを聴いてこられた方なのだろうと思う。僕にはむしろそういう言葉からは遠い演奏のように聴こえた。バーンスタインの濃厚に歌いこんだ演奏や、フルトヴェングラーの骨太の演奏などと比較すればの話だが。
オーケストレーションもかなり今まで聴いていたものと違って面白かった、でも僕はやはり今までのエディションの方が好み。従来のエディションに愛着がある以上、客観的な判断は下せないのだけれど。ただ、マーラーのエディションはだいぶ前から存在していたにも関わらず、こうやって定番の交響曲に「新しさ(新鮮さ)」を吹き込むことができるという点は素晴らしいことのように思う。
「再現芸術」という言葉はどうにも退屈なニュアンスが付きまといがちだが、それを感受する聴衆は変わり続けるしその中で「忘却」が弛まなく起こり続けているわけだから、そういった人々が忘れた(或いは知らなかった)ものを再び音にしていきメジャーレーベルからリリースされるということは、非常に意義のあることだと思う。
シャイーの今回の演奏にはそういう意味で評価できる。ありがとう。(謝意)
(*1)今はプロオケもまったくといっていいくらい使わなくなってしまったが、昔はカラヤン初めたくさんの巨匠が演奏した伝統のあるホール。僕も一度だけだけれどこのホールで演奏したことがある。なんだか懐かしい音がして驚いた。
◆ 2007.02.20 Tue
成熟した若者の孤独
カフェで勉強していたら隣の席に女子高生が座ってきた。
ここまでは何の変哲もない光景。彼女は携帯を開き電話をかける、そうしたら急に目と鼻を赤くして泣きだしはじめる。どうやら彼氏と別れたらしい、電話を切ったあとも泣きくれる彼女。
周りに他の客もいなかったので勇気をだして「よかったら…」とティッシュを差し出してみた。東京人には理解できないと思うが、僕のような田舎者は変なコミュニティ意識があり、シャイなくせにときどきこんなお節介をしてしまう。
無視されたり断られるかと思ったが、意外にも彼女は「ありがとうございます」といって涙を拭き鼻をかんだ。それを見ていて
「…失恋って辛いよね」
と口が滑るように言ってしまい僕は思わずはっとした。気まずいから店を出ようと考えていたら、なんと彼女の方から失恋の話を始めだした。正直とても驚いた。
きっと誰でも良いから吐き出したかったんだと思う、内容は高校生らしい恋愛模様で懐かしかったりほろ苦かったり。話しだすと止まらない僕の性格も手伝って最終的には長々と閉店まで話しまくってしまった。
彼女と導きだした結論は、純粋な人や経験の浅い人とは付き合わないほうが良いというもの。そういう人は恋愛ベタでイライラするし遊んでも話しても退屈、遠慮気味で行動しないくせに不満は持っているから色々面倒、というのが主な理由。真理だとは思わないが妙に納得してしまった。
彼女は悲しいというよりも「悔しくて」泣いていたのだ、心身共にDTで稚拙な男に苛立ち別れを告げようと思っていた矢先に、別れを告げられるという屈辱に彼女のプライドはひどく傷ついたのだった。
若干捻くれた感覚のように思うが、実際のところ彼女は歳の割に色々な経験をしているらしく、成熟した価値観と雰囲気を持っているのだ。「成熟した若者」という感じ。
こういう子はいつも周りに違和感や苛立ちを感じながら、高校生というカテゴリの中に「閉じ込められて」生きているのだろうか。そのカテゴリの中で彼女はとりあえず何人かの男と付き合ってぎこちないセックスやデートを重ねてみるが、何一つ得ることなくひたすら空虚になっただけだったのかもしれない。
仮に、人間が時間によってでなく経験によって歳を重ねる生き物ならば、世の中はもっと上手く行くのになと思う。20年生きても成人というにはおよそ及ばない未熟な人間が大多数だが、視点を変えれば逆もまた然りである。
僕は成熟した若者がマイノリティーとして精神的に孤独であり続けることを憂う、これもある意味「格差」なのか。精神的格差。
ここまでは何の変哲もない光景。彼女は携帯を開き電話をかける、そうしたら急に目と鼻を赤くして泣きだしはじめる。どうやら彼氏と別れたらしい、電話を切ったあとも泣きくれる彼女。
周りに他の客もいなかったので勇気をだして「よかったら…」とティッシュを差し出してみた。東京人には理解できないと思うが、僕のような田舎者は変なコミュニティ意識があり、シャイなくせにときどきこんなお節介をしてしまう。
無視されたり断られるかと思ったが、意外にも彼女は「ありがとうございます」といって涙を拭き鼻をかんだ。それを見ていて
「…失恋って辛いよね」
と口が滑るように言ってしまい僕は思わずはっとした。気まずいから店を出ようと考えていたら、なんと彼女の方から失恋の話を始めだした。正直とても驚いた。
きっと誰でも良いから吐き出したかったんだと思う、内容は高校生らしい恋愛模様で懐かしかったりほろ苦かったり。話しだすと止まらない僕の性格も手伝って最終的には長々と閉店まで話しまくってしまった。
彼女と導きだした結論は、純粋な人や経験の浅い人とは付き合わないほうが良いというもの。そういう人は恋愛ベタでイライラするし遊んでも話しても退屈、遠慮気味で行動しないくせに不満は持っているから色々面倒、というのが主な理由。真理だとは思わないが妙に納得してしまった。
彼女は悲しいというよりも「悔しくて」泣いていたのだ、心身共にDTで稚拙な男に苛立ち別れを告げようと思っていた矢先に、別れを告げられるという屈辱に彼女のプライドはひどく傷ついたのだった。
若干捻くれた感覚のように思うが、実際のところ彼女は歳の割に色々な経験をしているらしく、成熟した価値観と雰囲気を持っているのだ。「成熟した若者」という感じ。
こういう子はいつも周りに違和感や苛立ちを感じながら、高校生というカテゴリの中に「閉じ込められて」生きているのだろうか。そのカテゴリの中で彼女はとりあえず何人かの男と付き合ってぎこちないセックスやデートを重ねてみるが、何一つ得ることなくひたすら空虚になっただけだったのかもしれない。
仮に、人間が時間によってでなく経験によって歳を重ねる生き物ならば、世の中はもっと上手く行くのになと思う。20年生きても成人というにはおよそ及ばない未熟な人間が大多数だが、視点を変えれば逆もまた然りである。
僕は成熟した若者がマイノリティーとして精神的に孤独であり続けることを憂う、これもある意味「格差」なのか。精神的格差。
◆ 2007.02.07 Wed
生ませる機械
どうも、「生ませる機械」ことtaxiです。
柳沢発言がどうこうよりも、揚げ足取りみたいにおじいちゃんをいじめる捻くれた女性議員の姿勢は学校にいるいじめっ子を思わせるようで醜い、そしてやっぱり審議拒否しかできない野党のヘタレっぷりの方が気になってしまう。
共同通信発の発言している音源を聞いてみると、柳沢氏も講演中に断りを入れているのがわかる、表現がやや不適切という点は彼自身も発言する段階で自覚していて何度も「ごめんなさいね」といいながら発言しているわけだ。
発言の端々にいちいち敏感に反応してる人ってなんか弱いというか、人間が小さいというか。マスコミの過剰報道にすぐに乗っかる人って、なんか薄っぺらく感じてしまう。僕がそういうところを気にしなさ過ぎなだけなのかもしれんけど。
なにかを発言されたときにそれを無視できず反応すると、その時点で「自称」してるみたいになってしまう。なにより表面的な言葉より具体的な行動の方が大事だと思うので「そこで突っかかってどうすんのよ?」と言いたくもなるよ。ふへへ。
いずれにしろ、ここが攻め時とばかりに極端なフェミニストを演じる女性議員の存在が逆に野党ばかりか女性全体のイメージまで下げているのは残念です。もう頭が悪すぎて、僕は見ているのも辛いです。
空気読めない人が多いんだな、きっと。
柳沢発言がどうこうよりも、揚げ足取りみたいにおじいちゃんをいじめる捻くれた女性議員の姿勢は学校にいるいじめっ子を思わせるようで醜い、そしてやっぱり審議拒否しかできない野党のヘタレっぷりの方が気になってしまう。
共同通信発の発言している音源を聞いてみると、柳沢氏も講演中に断りを入れているのがわかる、表現がやや不適切という点は彼自身も発言する段階で自覚していて何度も「ごめんなさいね」といいながら発言しているわけだ。
発言の端々にいちいち敏感に反応してる人ってなんか弱いというか、人間が小さいというか。マスコミの過剰報道にすぐに乗っかる人って、なんか薄っぺらく感じてしまう。僕がそういうところを気にしなさ過ぎなだけなのかもしれんけど。
なにかを発言されたときにそれを無視できず反応すると、その時点で「自称」してるみたいになってしまう。なにより表面的な言葉より具体的な行動の方が大事だと思うので「そこで突っかかってどうすんのよ?」と言いたくもなるよ。ふへへ。
いずれにしろ、ここが攻め時とばかりに極端なフェミニストを演じる女性議員の存在が逆に野党ばかりか女性全体のイメージまで下げているのは残念です。もう頭が悪すぎて、僕は見ているのも辛いです。
空気読めない人が多いんだな、きっと。
◆ 2007.02.05 Mon
オケとブラスの違い
友人の金管楽器奏者が非常に興味深いことを書いていた。
彼女の言うとおり、「オーケストラの音」と「ブラスの音」は明確に違うと思う。科学的な説明ができないのでどうしても曖昧な表現になってしまうのだけれど。
オケの最大の特徴は打楽器・金管・木管・弦という性質も音色も違う楽器が存在していること、そしてそれらがお互いに音色やそれぞれの音の特徴を「寄せ合い」、「溶け合わす」ことでハーモニーを作っているわけだ。
金管に限って言えばオケらしい音は角の取れた溶けやすい音という表現になるだろうか、ベルの辺りで破裂するような音ではなくて遠くで鳴る音じゃないと上手くいかない。曲にもよるんだけど。
そもそも金管楽器そのものが生まれたばかりのころは、宗教音楽で人間の歌声のオクターブとかコラールなんかを担当していたわけで、そこにクラシックにおける金管の音色の精神構造の出発点があるんだと思う。むしろ金管がブリブリするようになったのは音楽史全体からみたら最近の話なんじゃないだろうか。
僕はオケの弦楽器の中に混ざっての管の役割も、ブラスのハーモニーも好きで、どちらが優れているとかそういうことは全く感じない。その違いは「演歌歌手の声」と「桑田圭祐の声」みたいなもので、同じ「声」だし似ている感じもするけれど実際はかなり違ったものだと思う。
「違いがある」という前提論をわかった上で、自分のスタイルを貫きたいと思う人はブラスか吹奏楽の楽団に入った方が心から楽しめるんじゃないかと思う。クラシックやる以上、そこで「どこが違うんだよ!」なんて言い張るのは、上手い下手以前の問題じゃないだろうか。
僕も大学一年の頃からブラス上がりの人と沢山会ってきた、吹奏楽で全国一位の人とかなかなか凄い経歴持ってる人も多かった、どの人も基本的に上手いけどハッキリいってオケを破壊しかねないような価値観のズレた音色だったのが印象的だった。
僕はそれをハッキリ言ってしまうタチだったから、相手も最初は凄くへこんだり時には敵意を持ったりもされたけど、最終的にはみんな「あの時言われなかったと思うと怖い」なんて言ってくれるし、実際今は殆どの人が素晴らしい演奏者(中にはプロの道に行った人もいる)になっているし。本人が「変わろう」と思えば変われるもんだと思う、それを教えてくれる指導者がいればという前提論なんだけど。
実際に演奏会を聴いてみて彼女の所属するオケの金管の音は確かにかなりブラス寄りだと感じた、一人の「聴衆」の立場からいって「オーケストラ」を聴きに行っている以上あの違和感はどうしても拭い去れないものだと思う。
それを「プレイヤーがどうこう以前に日本の吹奏楽教育の弊害だ」なんて乱暴に言い切ってしまう事もできると思うけど、オーケストラにコンバートする以上は個々人が音の価値観を自分で考えて再構築する必要があるのは確かだ。もしかすると彼女のオケにはその辺の音の価値観を導いてくれる人がいないのかもしれない。
それから「音楽的なこと以前に音程とタテ」って言葉はちょっと容認できない。学生オケが縦の線などを合わせてから音楽的なことをやろうなんて順序をつけると、すべてが中途半端なまま終わってしまうことが多い。縦と音程を揃えることはだけに終始するような「さらわせる練習」だけはやるべきじゃないし、もっというと、目指すべき表現(終着点)がわからないままそういったことを先に練習をするのは僕に言わせれば「音楽」じゃない。
全てのオーケストラが音を作る時に縦や音程を揃えようと練習に励む理由は、何かを「表現」するためにそれらが必要だからだと思う。その必然性や方向性を見失ったまま縦や音程そろえる練習すると、無機的な「結果」だけの音楽になってしまうと思う。
オーケストラとブラスの違いってなんなんだろ。
感覚でしかわかんないから言葉でうまく説明できない。でも言葉で説明しないとわかんないんだと相手は言ってくる。私はオケ育ちだからブラス持ち込まれると違和感感じるけど、ブラス上がりの人が違いがわからないって気持ちもわからなくもない。まして初めて入ったオケが「ブラス+弦」のような団体で、それが基準になるんだから、「オケじゃないよ」って言っても通じないのもわかる。
「弦のレベルに合わせて音小さくしろってこと?」って言われたけど、それも合ってるようで全然違う、でもそうじゃなくてこうだよっていう説明も難しいし。
―「音楽的なこと以前に音程とタテだろ」っていわれた話、音程とタテ以前の話だろって言えばよかった!でもそれもわかってもらえないんだろうな…
彼女の言うとおり、「オーケストラの音」と「ブラスの音」は明確に違うと思う。科学的な説明ができないのでどうしても曖昧な表現になってしまうのだけれど。
オケの最大の特徴は打楽器・金管・木管・弦という性質も音色も違う楽器が存在していること、そしてそれらがお互いに音色やそれぞれの音の特徴を「寄せ合い」、「溶け合わす」ことでハーモニーを作っているわけだ。
金管に限って言えばオケらしい音は角の取れた溶けやすい音という表現になるだろうか、ベルの辺りで破裂するような音ではなくて遠くで鳴る音じゃないと上手くいかない。曲にもよるんだけど。
そもそも金管楽器そのものが生まれたばかりのころは、宗教音楽で人間の歌声のオクターブとかコラールなんかを担当していたわけで、そこにクラシックにおける金管の音色の精神構造の出発点があるんだと思う。むしろ金管がブリブリするようになったのは音楽史全体からみたら最近の話なんじゃないだろうか。
僕はオケの弦楽器の中に混ざっての管の役割も、ブラスのハーモニーも好きで、どちらが優れているとかそういうことは全く感じない。その違いは「演歌歌手の声」と「桑田圭祐の声」みたいなもので、同じ「声」だし似ている感じもするけれど実際はかなり違ったものだと思う。
「違いがある」という前提論をわかった上で、自分のスタイルを貫きたいと思う人はブラスか吹奏楽の楽団に入った方が心から楽しめるんじゃないかと思う。クラシックやる以上、そこで「どこが違うんだよ!」なんて言い張るのは、上手い下手以前の問題じゃないだろうか。
僕も大学一年の頃からブラス上がりの人と沢山会ってきた、吹奏楽で全国一位の人とかなかなか凄い経歴持ってる人も多かった、どの人も基本的に上手いけどハッキリいってオケを破壊しかねないような価値観のズレた音色だったのが印象的だった。
僕はそれをハッキリ言ってしまうタチだったから、相手も最初は凄くへこんだり時には敵意を持ったりもされたけど、最終的にはみんな「あの時言われなかったと思うと怖い」なんて言ってくれるし、実際今は殆どの人が素晴らしい演奏者(中にはプロの道に行った人もいる)になっているし。本人が「変わろう」と思えば変われるもんだと思う、それを教えてくれる指導者がいればという前提論なんだけど。
実際に演奏会を聴いてみて彼女の所属するオケの金管の音は確かにかなりブラス寄りだと感じた、一人の「聴衆」の立場からいって「オーケストラ」を聴きに行っている以上あの違和感はどうしても拭い去れないものだと思う。
それを「プレイヤーがどうこう以前に日本の吹奏楽教育の弊害だ」なんて乱暴に言い切ってしまう事もできると思うけど、オーケストラにコンバートする以上は個々人が音の価値観を自分で考えて再構築する必要があるのは確かだ。もしかすると彼女のオケにはその辺の音の価値観を導いてくれる人がいないのかもしれない。
それから「音楽的なこと以前に音程とタテ」って言葉はちょっと容認できない。学生オケが縦の線などを合わせてから音楽的なことをやろうなんて順序をつけると、すべてが中途半端なまま終わってしまうことが多い。縦と音程を揃えることはだけに終始するような「さらわせる練習」だけはやるべきじゃないし、もっというと、目指すべき表現(終着点)がわからないままそういったことを先に練習をするのは僕に言わせれば「音楽」じゃない。
全てのオーケストラが音を作る時に縦や音程を揃えようと練習に励む理由は、何かを「表現」するためにそれらが必要だからだと思う。その必然性や方向性を見失ったまま縦や音程そろえる練習すると、無機的な「結果」だけの音楽になってしまうと思う。
◆ 2007.02.04 Sun
酒が飲みたかった
今さらだが風見しんごさんの娘が亡くなったニュースをきっかけに亡くなった親父のことを色々と考えた。とりわけ風見さんの言っていた「娘と酒が飲みたかった」という一言がズシンときた。
逆の立場ではあるが、僕も親父と酒飲みたかったと今でもよく考えることがある。人生とか恋愛とか音楽とか…今だからこそ相談したいことが山のようにある。そんな思いがある一方で、現実として僕は沢山の選択を自分で選び今日まで生きてきたわけだ。
母もよく言われる話だが、親父は僕の一番のファンだった。「格好良く生きること、新しい道を自分で創りだすこと」を昔から僕にたたき込み、僕の活躍を誰よりも喜んでいたのは親父だった。
僕が生徒会長になったときも、行事があるごとに「格好良く決めろよ」なんて言われて張り切っていたのを覚えている、卒業式の答辞を話す僕の姿が収められたビデオを何度も繰り返し観てはにっこり微笑んでいたのも忘れられない。
しかし、僕の父の記憶は高校1年の冬にピタリと止まることになる。彼は老いることなく格好良い親父のまま写真に永遠の姿を焼き付けている。
迷ったら勇気のいる方に進んできた、失敗を恐れずに飛び込んで「飛び降りちゃったんだもの、パラシュートが開いてくれなきゃ困るんだ」なんて冗談を言いながら本当は必死に今日まで生きてきた、誰も飛んだことのないような新しい空間を探してきた。
考えてみると、僕の生き方の根底にはいつも親父にたたき込まれた「格好良く生きて、新しい道を自分で創りだす」という価値観が流れているのだと気付かされる。存在は大きかった。ときどき僕は写真の中の親父に問い掛ける、
「なぁ親父、俺ちゃんとカッコ良く生きられてるかな?」
返事はないけれど、親父が僕の背中をパンッと叩き、「頑張れよ」と言ってくれている気がする。こうやって親父の言葉が沈黙の中から紡ぎだされてくるのは、それだけ触れ合っていた証拠なんだと思う。無いものねだりはしない、親父は色々なものを僕の中に残してくれた。
僕はもう少し前に進んでみようと思う。
逆の立場ではあるが、僕も親父と酒飲みたかったと今でもよく考えることがある。人生とか恋愛とか音楽とか…今だからこそ相談したいことが山のようにある。そんな思いがある一方で、現実として僕は沢山の選択を自分で選び今日まで生きてきたわけだ。
母もよく言われる話だが、親父は僕の一番のファンだった。「格好良く生きること、新しい道を自分で創りだすこと」を昔から僕にたたき込み、僕の活躍を誰よりも喜んでいたのは親父だった。
僕が生徒会長になったときも、行事があるごとに「格好良く決めろよ」なんて言われて張り切っていたのを覚えている、卒業式の答辞を話す僕の姿が収められたビデオを何度も繰り返し観てはにっこり微笑んでいたのも忘れられない。
しかし、僕の父の記憶は高校1年の冬にピタリと止まることになる。彼は老いることなく格好良い親父のまま写真に永遠の姿を焼き付けている。
迷ったら勇気のいる方に進んできた、失敗を恐れずに飛び込んで「飛び降りちゃったんだもの、パラシュートが開いてくれなきゃ困るんだ」なんて冗談を言いながら本当は必死に今日まで生きてきた、誰も飛んだことのないような新しい空間を探してきた。
考えてみると、僕の生き方の根底にはいつも親父にたたき込まれた「格好良く生きて、新しい道を自分で創りだす」という価値観が流れているのだと気付かされる。存在は大きかった。ときどき僕は写真の中の親父に問い掛ける、
「なぁ親父、俺ちゃんとカッコ良く生きられてるかな?」
返事はないけれど、親父が僕の背中をパンッと叩き、「頑張れよ」と言ってくれている気がする。こうやって親父の言葉が沈黙の中から紡ぎだされてくるのは、それだけ触れ合っていた証拠なんだと思う。無いものねだりはしない、親父は色々なものを僕の中に残してくれた。
僕はもう少し前に進んでみようと思う。
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