◆ 2007.07.31 Tue

勘違いされる「選挙」

選挙結果が出た。率直に言って微妙な結果。

今回は「マスコミ」と「頭の弱い国民」が決めた選挙だったと思う。自民の過失は確かに大きいのだけれど、失言にしても実害なんて何もないし、年金問題にしても自民だけのせいじゃない。今頃になって年金に気付いて指摘する野党も遅いのだ。もっといえば、すぐマスコミに流される哲学と知性に欠けた国民も悪い、またしても「日本人の悪いところ」が出てしまったという印象だ。

自民がダメだから、民主に!」っていうのはどうなんだろうか。(おそらく同じこと考えてる人は多いと思うのだが)民主も偽装メールだのなんだのとお粗末なことやってて、人的ポテンシャル考えたらなかなか悲惨なものだ。

彼らが主導権握りすぎるのもどうかと思う、まして政権なんぞ握ったら…と思うと恐ろしくなる。彼らに年金問題に落とし前をつけるキャパなどあるとは思えないし、国政を任せるのは怖い気がする。北朝鮮政府も今回の結果にはさぞ満足してることだろう、拉致問題解決も遠のきそうで被害者家族の皆さんは本当に無念だ。

でも閣僚に足引っ張られて冷や水を一気に浴びせられ、それでも続投しようと決意した阿部首相は偉いと思う、負けずに頑張ってほしい。批判は高まるだろうけど(特にこの一ヶ月は凄いことになるだろう)、ようは考え方の問題だろう。

ダメだったら切腹みたいな日本の古い精神は時々間違っている。ある「結果」には「結果」でもって責任をとるというある種の西洋的な落とし前のつけ方のほうが政治という世界には相応しいのではないかと個人的には思う。



テロ対策特措法の期限延長について鳩山さんが

「私たちが基本的に延長すべきでないと主張していることも含めて(参院選で)国民の審判が下った」と言って、反対していく考えを明らかにしたそうだが、この発言に早速動揺してしまった国民は多いようだ。

実際周りの声を聞くと、頭の悪い人たちは、

自民党に喝を入れるつもりだった…
選挙の争点は、年金問題だったから…

と、そんなつもりじゃなかった的なことを言っている。

多くの人が「選挙」というものを勘違いしていると思う、だからマニフェストも読まないでマスコミの意見のみをソースにして安直な価値判断をしてしまうわけだ。そういったものの集積が今回の民主大勝だとしたら、なんだかますます悲しくなってくる。



マスコミがイエロー・ジャーナリズムに走るのは、19世紀から既にあったことだしある程度仕方ないことだと思っている。しかしながら、それがワイドショー化してしまうと流石にマズイと思っている。

報道の中立性を維持するためには、キャスターは事実以外は述べない必要が本当はある。もっというとコメンテーターなどの意見を求めて、主観的意見を報道の中で一緒くたに見せるのも良くない。(まして専門知識に乏しいタレントやスポーツ選手がコメンテーターとして発言するなど論外だろう)

本来はCNNのTalk Liveのようにニュース番組中に別のコーナーとして構成する必要があると思う。そしてその中でトレンドよりも自社の哲学に忠実になって確固たる理念・思想を明確に示して欲しいと思う。国民は与えられたものを吟味する、そういう形が望ましいと僕は思う。

いわゆる「一億総白痴化」(大宅壮一はもう古いし、この言葉自体が既に死語だけれど)にいかに仕向けないようにかどうかは、マスコミのテクニック次第だと思う。でもそう上手くは行かないから、やっぱ国民側がもっと冷静にクレバーになる必要があると思う。
◆ 2007.07.24 Tue

自分の歌を歌え!

ときどき「人間関係」が面倒でイヤになる。

昨日はスコアのお勉強をしながら友達と電話していて、「これはだめかもわからんね…」という台詞を連発してた。時々へタれにもなる、音楽界も社会も一緒で必ず「嫌な人間」と一緒にやっていかないと行けない歯痒い場面があるのだ。

演奏家たちの人間性の無さに打ちのめされるたびに、なんでこんな職業選んでしまったんだって後悔するよ

某指揮者の方が珍しくネガティブに語ってたのを思い出した。どんなに一流になってもそういうことは時々考えるらしい。人間はどこまでいってもやはり「人間」なのだ。

上手く行かない時にどうやって自分をコントロールするか、難しいけどそういう部分が重要なんだなと思う今日この頃。最近「お前ドSになった!」と周りから言われるのだけれど、僕に言わせれば、そうでないと渡り歩けぬ日常に揉まれただけ。今まではプライベートでしかSじゃなかったんだけどな。(笑)

でも最近、困難な場面や危険な関係を「楽しんでいる」自分。音楽も人生も恋愛も一緒で、僕のやるべきことは「耳を澄まして」そこに何が起きているのかを注意深く「吟味する」こと、そしてそこで自分のするべきアクションを「見つける」こと。そんなある種の開き直りが僕の中身を変えてくれていると思う。

あとは言葉・文章・音楽で「自分の歌」を歌い続けるだけだ。
◆ 2007.07.18 Wed

人間の強さ

今日は病院にお見舞いに行ってきた。

癌でちょっと前に入院して、もう転移も進んでいてそんなに長くは生きられないかもしれない女性。正直会うまではどんな声をかけていいか分からなかった。でも、あの人は「いつも」のように笑顔で迎えてくれた。そのことに僕は安心したし、なにより嬉しかった。

見ているだけで元気になりそうな黄色の花を買っていったのだけれど、喜んでもらえて安心した。「プリン食べてー」なんていわれてご馳走になったりして、今の環境でできる一番のもてなしをしようとするその「心意気」にはちょっとグッとくるものがあった。

彼女は「強い人」だと思った、あの人は「闘っている」。僕は最後まで奇跡が起こることを強く信じたい。

ふと、故・佐藤功太郎先生のことを思い出した。(彼は、僕が音楽の道に進もうか悩んでいることを最初に打ち明けた相手であり、大変お世話になった指揮者である)葬儀の時に奥さんから聞いた話は今も心の中に強く残っている、彼女の姿を見ていて、先生が最期に見せた「人間の強さ」というべきものを思い出した。

人間は本当に強い。

中越沖地震が起きた直後というせいもあるのだけど、「死の理不尽さ」について最近またよく考えている。全て神の意思だというなら、僕はもう彼らを信用しない。命を一瞬にして奪い去られた人間の無念さを想い、ゆっくりと迫る「死」と向き合う人間の苦悩を想う。

僕は死を美化し何とか生きてきたようなところがあるけど、実際のところ死はかくも生々しい。時々酷く打ちのめされる。

でも、その度に「生きなきゃ」と思う。みんなも生きていってください。命ある限り。
◆ 2007.07.11 Wed

一途の美徳

ある友達と話していたときのこと。

世の中のカップル達はイチャイチャしたいんじゃなくて、淋しいから求め合ってるんじゃなかろうか?」という話になった。面白い視点だと思う。

あえて本当は思ってもない極論をいわせてもらうなら、恋愛は火傷しなけりゃ本当はいくらでも火遊びしたほうが得だ、人間はできるだけ淋しい時間を減らそうとする生きものだから。

ではなぜ、日本人は「一途」であろうとするのか?倫理とかいう誰が定義したのかわからない理論はどうもしっくり来ない。

独りが淋しかったから?

見返りがほしいから?

セックスがしたいから?

関係を良好にしたいから?


どれもクリティカルな答えにはならない。僕はまとめて「好きだから」とかいう都合の良い言葉に集約してしまうけど。

たぶんその根底にあるのは「独占欲」だ。相手を「自分だけのもの」にしたいから、自分を「相手だけのもの」にしようと努める心の動き。

その裏には、「関係はお互いにイーブンでなければならない」という日本のお互いに譲り合う美徳が潜んでいるように覆う。いわゆる非ジャイアン的な日本人の美しい価値観。

でもその恩着せがましさに時々イラっとするのが人間。だから時々ジャイアンになりたくもなるわけだ。でもそういう部分が人間の可愛いところだと思う。



この記事に対する反響が非常に大きく、非常に意義深いやり取りが出来たので、その中からコメントのいくつか紹介しておく。

「一途」ですか…。一途である姿を相手に見せて自分に引き留めておきたい、ただ単に恋は盲目的な意味で相手しか好きじゃないから、てゆう気持ちもあるのかも。

自分に引き留めておこうとする冷静な意思と、盲目的にその人だけを好きになるという熱い衝動は。理性と本能という点においてはある意味相反するものかもしれない、そういうものが同居するところが恋の面白さだ。とりわけ人間は知的な生き物だけに複雑だ。

ジャイアン的な価値観を背負った日本人が、なるべく非ジャイアン的になろうとした結果、『一途』を美徳とする建前を生んでいる気が…。人間は本質的(本能的?)に『一途さ』を持ち合わせていないから、そういう『幻想』が美徳とされるように思います。

かくいうぼくも、『一途な関係』に惹かれながらもがいてる日本人の中の一人ですが(笑)

確かに本質はジャイアン的であるという前提は見逃せない、幻想への甘美な憧れが日本人の一途さの一要素かもしれない。なんと文学的な民族なんだろうか、ロマンチックだ。

みんなが建前という結界の前で緊張に満ちた妙な息苦しさを感じて動けなくなっているような場面が僕はよく出くわす。「幻想」はいつも「リアル」に犯されるぎりぎりのとこにいる。そのぎりぎり感をまるごと楽しめたら勝ちかもしれない。

「幻想」と「リアル」のせめぎあい…たいていの人はそのどちらかを是としてしまう気もするし、どちらも非とする気持ちも持ち合わせていて…妙な息苦しさは、そのどちらかを揺れ動きながら自分の位置を探し続けなければならないところから来るんですよね。

ランナーズ・ハイ的な世界が「ヨノナカ」の常識になったら…そんな世界を(恐いけど)見てみたいですね。「そちらに向かうべきだと思ってる自分」と「そちらに向かって走っている自分」のどちらが、たとえリアルでも幻想でも、感じていきたいと思います☆

ほうほう、その息苦しさはジレンマであると。納得。ランナーズ・ハイ的世界は確かに見てみたい。でも見れないからこそ小説・映画は価値があるのかもしれない、ある種の極端化された「日常」がそこには描かれてる。走ろうじゃないか、どうせ死ぬんだしな!(極論)

taxiさんは理論的に物事を解釈をするのが好きなんですね…てか、そうしてしまうのが癖っぽいですょね。(笑)

私は人と付き合ってる経験が少ないけど、カップルになる時ってお互いが求め合うことで成立するわけで、それはお互いがいろんなことを承諾しあってるから何でもアリな気がする。

もし辛くて落ち込んでたら、話を聞いて少しでもラクにさせたいって思うし、空いてる時間を共有する事だってデートってゅうわけだし。『好きだから』相手を独占したいんじゃないかな〜

たぶん私は周りが見えなくなってしまうから…きっとみんなイライライライラしてそーだ。

まぁ要するに「考えすぎだよ」ってことか。実際こんな事を愛してる人がいるときに考えているかっていうと、逆で、何も考えずイチャイチャしてる何でもアリなタイプだから、理論で後から上手い理由をつけて自己正当化してるだけだと思う。

僕も色々と理屈を捏ね回してみるけど、結局「好きだから」っていう結論に戻ってしまい堂々巡りだったりするわけで漠然としているけどそれが答えなんだろうなって思ってる。だって全ての問いかけやに合致してしまうもの、理論とか越えて。

盲目的に恋する女の子は良い。それ理想!仮にイライラさせてても無問題。ここは日本だから!(笑)

恋愛について「あーだこーだ」語ることもできないくらい、現実ばかりを見ています。だから、恋愛を客観視できているtaxiがうらやましい(切実)

「どうして一途であろうとするのか?」って・・・考えさせられるなぁ・・・私の場合は「愛して欲しいから」(パートナーを愛しているから、とは限らない)、「一途な自分が好きだから」 、「執着」(中毒)、この3つが大きな理由だとは思うけど、実際そんなことを考えて一途になっているわけではないんだよね。

独占欲が根底にあるっていうのは否めないけど、絶対にそれだけじゃない。「自分が傷ついた(友人・恋人・家族によって)」経験から、「傷つけないで欲しい、愛して欲しい」と友人・恋人・家族に執着してしまったり・・・年をとって経験が増えるごとに、今までになかった発想をしてしまうことを恐ろしく感じます。

今夜は眠れそうにありません!taxiのせいだー(泣)

僕も本当は愛するより「愛されたい」人間なんだと思う、でも愛されたいから「自分が!自分が!」となってしまって逆に「愛する」側ばかりになってしまってモヤモヤしているのが現実。

「一途な自分が好きだから」っていう人もいるんだなぁとしみじみ、僕は自分がどうこう…という風にはならないから新鮮だった。「執着」はすごくわかる、過去の経験からの逃避というか。そういう弱い部分は僕もある、辛い事もたくさんあったから。

あーだこーだ言っても、最後は「好きだから」というものすごくシンプルな理由に還っていく。それでいいと思う。そして歳を重ねて時には失敗しながら色々なケースを学んでいく、人間は少なくとも学習して無意識に進化してく生き物。ポジティブに考えてみてほしい。

そうなのよね。愛されたくてアレコレしているうちに自分の愛の大きさに気づく。モヤモヤ・・・だね。そうか、モヤモヤなんだな。この感情。ただ辛い事は、過去とは限らないんだな。現在が精神的肉体的につらくても、逃避するかのように一途になる。こういう日本女性もいます。稀に。

そして、ネガティブになっていた自分に気づかないでいたようです。お恥ずかしい。アナタの上手な文章に落とされ、救われました。活字にしてもらえたことによって、何か整理された気分になったよ。

さてと「好きだから」という理由でそっとお布団にもぐりこもう。

逃避としての一途か…そういう感情もあるだろう。日本女性の感情は繊細さという点で世界一美しいかもしれない。ただ、繊細さは同時に脆さでもあるから難しい、そこで日本男性の果たす役割も当然大きいわけだ。思うことを字に書き出す作業はとても有効だ、知的生命体に与えられた理解するための財産だと思う。
◆ 2007.07.11 Wed

外人への憧れ?

J'ai eu le coup de foudre pour toi.

人待ちでアルタ前の広場で煙草を吸っていたらイギリス人(と本人は言ってた)に話し掛けられた。最初はどーでもいい話ばかりしていたのだけど、音楽やってるっていうからRadioheadの話を振ったら意気投合。おめーも暗い音楽聞いてるな!

でも見た目は大味なAFばかりしてそうな危ない感じの人だったのでその場限りで終了。まぁロックやってる人なんてみんなクレイジーだけど。なんで可愛い外人は話しかけてくれないんだろうか…ビッチに話しかけられても嬉しくない、というか困る。もっというと黒人にB系の服を薦められる時も困る。(笑)

外人と付き合ってる日本人女性が最近増えたけど、中にはどう考えても世界レべルでイモな外国人男性と付き合ってる可愛い子がいて意味もなくへこむ。外人に憧れて完全に感覚がマヒしてるといった感じ。頭わりー女はたいてい根拠もなく外人に憧れてる、馬鹿じゃねーのと思うけど。好き好きだから仕方ない。

ま、要はジェラシーだ。(笑)



この記事に対しコメントをいただいた。

頭わりー人間は大抵無根拠に外国語に憧れてる。
「世界中の人と話がしたいだって?」
隣人とも話ができないのに、馬鹿じゃねーの?

と換言可能かと思われます。手段を目的と履き違えてるヤツは大抵バカだ。おっぱいのことを考えていたほうがマシだ。

非常に的確な換言ありがとう。おっぱいのこと考えていれば、地球が平和になる。勇気をだして「おっぱい」と言ってみよう。その後に残る不思議な笑顔、それが「平和」だよ。(笑)

(フランス在住だけど)残念ながら私の彼は日本人だよ。
日記にB専って書いたら怒ってたけどね(笑)。
うーん、私から言わせてもらえば、やっぱり文化の違いは大きいし、阿吽の呼吸って大事だと思う…。
というのがこっちの人と付き合って得た結論です(笑)
よって、こっちの人と付き合ってる日本人女性を尊敬します。
私だったら絶対続かないよ。

フランスから生々しい意見をありがとう。文化の違いは僕も某オーストリア人を愛してみて痛感!やっぱ日本人は日本人が良いんだよなーと思った。言語の壁なんてチョロいもんだけど、阿吽だけはどうにも。

そっちの人と付き合ってる日本女性はそこまで考えてないと思う。だって要はペット自慢みたいなもんでしょ、アレって。(笑)或いはもしかすると日本人女性の方が選ばれてる側なのかも、思いやりあるし尽くしてくれるし、日本女性は最高だと思う。
◆ 2007.07.04 Wed

わがままの歴史

小さいころの僕はいたずらっ子だった。

ママンの職場に連れて行かれたときには、こっそり頭にコピー用のインクをベトベトつけて大騒ぎになったっけ。その後レモン石鹸で頭洗われた。ワイルドなママン。そのほかエピソード書いたらキリがないけど、とにかく自由奔放な子供だったな。大自然で育ったせいも少なからずあるだろう。

でも今改めて振り返ってみたら、同時に「わがままな奴」だったんだと気付く。

僕は男二人兄弟の次男にあたる。同じ境遇の人間ならなんとなく分かってもらえると思うが、なんでも良いところは兄貴に理不尽な形で奪わていた。お菓子とか、おもちゃとか、ゲームとか…色々。

そんなことが日常化していくなかで、自分の心には日々欲求がたまっていった。その頃のやるせない気持ちを今でも覚えていたりする、物事の記憶というより「気持ちの記憶」。

当然、たまったものはどこかで爆発する。僕にとってはそれが兄貴のいない「保育所」だった。しかし、兄貴がいなくてもやはり男は天敵だった、自分より強い人間が一人でもいたらダメなのだ。

そこで僕は男の子と遊ばずに女の子と遊ぶという選択をする。屋内で女の子に混じって「ままごと」ばかりしていた。自分はその世界では「お父さん役」という絶対的な地位をすんなりと獲得し、わがままになることができた。

それは当時の恋愛においてもそうだった。ユウコちゃんとサトミちゃんという二人の女の子を同時に好きになり、お母さんに「2人に指輪を買う!」と泣いて言い張った。自分がわがままを言える「場所」がそこにしかなかったからだ。

結局は幼稚園が別々になりこのわがままは実らなかった、そこで僕の果たされなかったわがままはさらに増大する。

小・中学校ではわがままを爆発させる場所が「学校」に変わる。自分のわがままを通すために僕はまず「人気者」になろうとした、そうなるための方法はとても単純明快だった。

小学校はリレーの選手になって、ピッチャーをやって、学芸会で主役になって、楽器が弾ければ十分すぎるくらいだし、中学校は生徒会長をやって、成績優秀になって、文化祭で目立って、先生に気に入られればそれで十分なのだ。

そう考えてくるとと幼少期から青年期までの人生は全て、わがままを果たすためだけに生きてきたんじゃないか?なんて思ってしまうことがよくあるわけだ。



…しかし、高1の時にある「死」を体験をして僕は変わった。

自分が悩んだり苦しい思いするのが嫌で、現実から逃げるように音楽に没頭するようになりわがままを言うことをピタリとやめてしまった。端的にいうと「いい人」になったということ。いつの間にかS的性格はM的性格に変わっていた。

その変化がもたらした結果は微妙なものだった。

どんな人間(たとえ嫌いな人間)に対しても、「いい人」として平等に接するようになっていくことで、誰からでも慕われるようになったのは確かだ。しかし、そんなむず痒いことをやっているうちに、やがて「みんなの●●くん」みたいな扱いを受けるようになる。その固定観念はわがままひとつ言えないほどの縛りとなって僕を襲った。

そこでまた昔のようにストレスがたまっていくようになった。「くそったれ!」と内心思いながら「いい人」を演じるのは、最低の気分で、今思い返すと吐き気がする。

やはりくそったれな奴には「くそったれ!」といった方が良い、好きな相手に思いっきり愛を叫べる奴はたくさんいるけど、嫌いな相手にくそったれ!と叫べる人間は意外と少ない。特に日本は表面的な優しさに守られて、腐った人が多い。



(月日は流れた。歳も取った。)


そして今の自分どうなっているか、よくわからん。

そもそも、こんな文章を書いたのには理由がある。ちょうど昨晩、その「爆発」が起きたからだ。非常に後悔している、なんだか後味が悪かった。相手を泣かせてしまった、僕も泣いた。「ごめん」って言葉が無意味になる瞬間ってあるよ。でも最後は幸せな形になったから安心した、もう少し僕は大人にならないといけない。自分の小ささにヘドが出るわ、やれやれ。

「わがまま」というものに僕は小さい頃から憧れていたし、ずっとこれからも求め続けていくんだと思うけれど。その沸いてくるわがままを「吟味すること」も必要だと思った。我慢しなすぎというのも良くないってことだな。何においても「バランス」が大事なんだよなー。まだまだ成長できそうな気がしてきたぜ。

でも、自分に正直に生きるのってやっぱ気持ち良い。何年もずっと感じてた「違和感」がなくなった。気持ちよけりゃ良いんだよ!

ひゃっほう!


Template by まるぼろらいと / ホームページ アフィリエイト レンタルサーバー FC2ブログ